ポリティカルコレクトネス?
わたしと息子たちは『ロード・オブ・ザ・リング』のファンである。映画は何度もみて、本も読んでいる。わたしは実家で、子どもをほったらかして夢中で本を読んでしまい、親と仲たがいしたきっかけとなった。「そんなんで子育てがきちんとできるの!」。子どもは子どもで映画と本好きになって勝手に育っている。
Amazonプライムで「リング・オブ・パワー/力の指輪」がはじまった。さっそく、次郎が見たらしい。LINEで「ポリコレで炎上しているね」と言ってきた。なんだかエルフに黒人の俳優が演じていて違和感があったようだが、詳しいことは検索するのも面倒でわからない。わたしもドラマを見てみたけど、黒人でも違和感は感じられなかったけど。でも、黒人のエルフは下級兵士のようで、上級エルフは白人だし、たいしたポリコレでもないということが批判されたのかしら。
おとぎ話なのだから。黒かったり白かったり黄色でもなんでもいいと思う。人間はアフリカから生まれたのだから。
最近で感心したのは、「トップガン マーヴェリック」を見たときだ。黒人が目立たなかったが、女性の隊員がいた。むかしなら、女性隊員は男性に揶揄されたり、邪険にされたり、恋愛の対象となったと思う。けど、何もないのだ。女性がリードをとっても平気。男女差なんて無色透明で、ただの同僚であり仲間でしかない。これはいいな、と思う。主役のトム・クルーズだけはあいかわらず恋愛していたけど、兵隊たちの描き方は良かったと思う。実際の軍隊に男女差別はまだまだあるのかもしれないけど、映画のようにふるまえることもできるということはあるだろう。
Amazonプライムで「ニューアムステルダム」という医療ドラマをみた。
黒人の心臓外科医のレイノルズに白人女性のER医師のブルームが誘うけど、「無理だ」と断られる。「なんでよ!」とブルーム。ふたりは盛り上がって寝てしまったことがあるみたいだ。だから、ブルームは恋人関係だと思い込むが、レイノルズは「ついつい盛り上がってしまった」という。そして自分には夢があると話す。「アフリカ系の女性と結婚し、かわいい黒人の子どもをもつこと」。だから白人と付き合うわけにはいかない。
ブルームは振られてもあきらめきれないが、友だちの優秀な黒人女性を紹介してしまう。
わたしが古いのかもしれないが、「すごいね、白人のほうが人種差別されているんだ」と感心する。
ドラマの中心にいるスタッフもさまざまだ。精神科医のフロムは同性婚していて、養子を何人も育てていて、まいにち子育てに忙しい。神経科医師のカプールはインド系。お祈りをする習慣があるし、カフェのエラにインドのお菓子をプレゼンする。カプールの助手はアジア人女性。スカーフを巻いた中東系の看護師もいる。主役のマックスを支える腫瘍科の医師シャープはかっこいい黒人女性。
ポリコレでこれだけ人種を集めているわけではなく、アメリカは人種のるつぼなんだろう。他のドラマでも同じような感じだ。
日本にいると感じられないけど、人種も性別もあまり気にならない世の中になってきていると思いたい。
まったくドラマばかり見ていないで、仕事しなさいと自分に言いたい。
日記を書く
このブログは備忘録になっているけど、日々本を読んで、映画を見たことをぜんぶは書き入れられない。
ブログがおろそかになっているのは、SNSのせいかもしれない。夫と週末だけ文庫をはじめたので、文庫の宣伝のためにSNSをしている。FacebookとInstagramは同じ記事を載せ、Twitterは日々の写真をつぶやいている。Twitterは手軽で好きだ。Instagramに週1回はきちんと記事を書くというのは、なかなか面倒だ。みんなよく更新している。でも、じぶんも人のブログやSNSを見て更新されていないと少し残念に思うので、週に1回は更新していこうとは思っている。
Twitterは自分用のアカウントがあり。それは本や映画や政治や関心あるものの情報収集といったところ。これもぜんぶ見ていたらきりがないが、たまにいいものに出会える。本の紹介はあぶない。そのままAmazonに移動して買ってしまうこともある。反省して、まずは図書館の検索機能で探すことと、安い古本を探したり、すぐに買わないようにしている。
日記はワードにつけていたけど、ダラダラ書いていてもあとで検索するのが面倒なところがある。
「note」に1カ月だけ日記をつけたことがある。でも、あれはSNSのようにイイネがついたりフォローされるという機能があり、面倒くさくなる。文庫でやっているSNSは商売でもあるので愛想良くしてフォローバックもするけれど、個人的な日記なので「ほっといてくれ」という気持ちになる。それにあのバッチという意味がわからなかった。いちいちバッチを獲得しましたとかうるさい。1か月日記をつけてみたが退会した。1か月の日記も消えたが、たいしたことは書いていないのでおしくもなかった。
「note」は再度入会したが、読みたい人の記事をフォローするためで、自分では記事は書いてない。ひとにはそれぞれ合うあわないのがあるのだ。
日々のことでなにか書きたくなったら、ここがあるのではないかと今朝思いついた。
ながくながくお世話になっているHatenaさんを思い出したわけである。
昔むかし、社会人学生で大学へ行った頃に書いていた。
それから福祉業界で働きいろいろあって、いろいろあってもどうにか乗り越えて生活している。
いまは、週に2日相談支援のバイトをしている。結局、精神保健保健福士という肩書がありがたいのかもしれない。9月から週3日をお願いされて、お金もキツイので引き受けた。ほんとうはなるべく働きたくないけど、生活のためには最低限働かなくうてはいけない。
週末は山のお家に帰って近くで文庫と古本屋をしている。でも、これは10月までだ。ほんの趣味のお遊びである。人も来ないけど、草取り草刈りで夏を過ごすだけよりはいいかもしれない。なぜ、文庫をはじめたかという話はいつか書きたい。
そのほか何をしていると、あいかわら俳句である。それに詩もかいて、最近は短歌もいいなあと思っている。いわゆる詩歌全般を読んだり書いたりしている。
金子兜太が死んで「海程」がなくなったときに、次の「海原」には移らなかった。東京まで行くのは貧乏になっていく自分には無理だと考えた。それで、詩を書いて地元の新聞に投稿して、けっこう掲載されたりしていた。
地元の「草笛」という俳句会から誘われて入会した。なんとなく俳句も書いていても、ひとりで書いているのもつまらなくなったから。入った次の年に評論賞募集があったので、飯島晴子の評論を書いて賞をもらった。今年は新人賞をもらって同人になった。嬉しいというより「まずい、やーめたと言えなくなる」と思った。
「海程」で新人賞は2位でもらえなかった。そのまま同人になってしまい、賞をもらわなかったことをがっかりもしなかった。あのとき賞をもらっていれば、わたしの俳句人生も変わっていたのかもしれない。
そんなこんなで毎日がすぎていく。
この冬に、ある先生の単行本の手伝いをして、その本が売れたので、わたしもなんとか生活していける。来年のために企画を考えなくてはいけないのだが、詩歌のことばかり考えて、精神保健的な企画に頭がまわらない。わたしが詩歌の本はつくれないので、精神保健関係の企画をのぞまれている。
そうそう、わたしはけっきょくのところ、ライターにもどったのだ。もどって1冊仕上げて、何のダメだしもなく本になっていくので、まだまだ力はあるはずだとは思うのだけど、心のどこかで還暦も過ぎてわたしに何ができるだろうと考えるのである。
すぐに鬱状態になりやすくてひきこもりになる。相談支援の仕事はエネルギーがいる。できたらライターで稼いでいきたいが、何を書くべきか迷っている。
お金にはならないけれど、2つのテーマは書くと決めているので取材はすすめていかなくてはいけない。あとは稼ぐための企画である。週3日は笑顔で相談支援。まだまだ頑張れわたしというところである。
映画『娘は戦場で生まれた』
映画「娘は戦場で生まれた」を見る。
映画の冒頭「そんなことを世界が許すとは思わなかった」と監督がいう。
わたしもそう考えていた。いまどき戦争や虐殺が許されるはずがない。しかし、戦争も虐殺もなくなることはなかった。いつもどこかで起こっている。よくニュースになる国やならない国の違いはあるけど、たくさん世界に向けて報道されても変わらない。破壊尽くされて終わる。生き残るのは運でしかないのだろうか。
わたしたちは報道を見て怒る。許されないことだという。しかし、なんの影響もない。世界中がデモをして祈れば違うのだろうか。ベトナム戦争を反対するときは、勢いがあったように感じる。
映画の監督は、自分の撮ったアレッポの現状をSNSであげて、何万のイイネがつきリツイートされても現実には影響しないことになにを感じるだろう。人々はニュースを消費するだけで立ち上がらない。
でも、現状を見てもらうしかない。知らせるしかない。次はわたしたちの番かもしれない。ただ、世界は助けてくれない。自分で戦うしかないのだ。
ドキュメンタリー映画2本「愛国と教育」「私のはなし 部落のはなし」
わかっていたことだ。ニュースで報道されることをつなぎあわせていけば、この国は戦前に回帰したがっている。なぜなのか。だれかが誰かを支配し、偉くなって国民をコントロールすれば都合がいいからだ。都合がいいのは何に? お金と名誉。なんというか、反吐が出る。元外務省の人がインタビューされていたけど、両手に指輪をし、金ぴかのカフス。いま流行らないような成金趣味。気持ち悪い。いい男ならまだ見られるが、ただのおじさんがやると、こちらが恥ずかしくなる。東大の名誉教授の言葉はネットウヨのように深みもなくむなしい。この方が東大の先生? 悲しくなる。
正直言って絶望し悲しくなる。
日本は、本当にどんどん遅れた国になり、それを隠すように全体主義になっていく。国民の不満をよその国に対してや自国のなかでの差別にむけさせて、人と人を監視させ、歩調を整え、もういちど破滅へと道連れにされるような。
悲しくても何もできない。今度の選挙だってなにも期待ができない。
わたしたちの無力感が全体主義の大きな餌になるとわかりながら。
意味わからない。血とは何なのか。
なぜ部落がまだ残っているのか。
息子に映画の話をした。「東北に部落はあるの?」と聞かれたので、「あるのかもしれないけど、東北全体が部落みたいなものだから」と答えた。
ほんとうに血縁も地縁もない流れ者の私には、部落の人たちでさえ故郷があるということが少しうらやましかった。寄って立つアイデンティティがある。いろいろな血が混じり居場所のない人間には、血にこだわる人たちが差別する側もされる側もよくわからないのだ。
映画「アイ・キャン・スピーク」
「アイ・キャン・スピーク」 2017年
監督:キム・ヒョソク
主演:ナ・ムニ、 イ・ジエフン
最近映画をあまりみていない。
寝る前にドラマ『メンタリスト』をみるのが習慣になっている。面白いと人に聞いたけど、タイトルにひっかかった。メンタリスト? でも、主人公は元霊媒師、メンタリストとしてテレビの売れっ子だった。しかし、その傲慢な言動で殺人鬼レッド・ジョンを怒らせ、最愛の妻と子を殺された。どういう経過わからないが、いまは警察のリスボンのチームにコンサルタントとして殺人事件に関わっていく。目的は、レッド・ジョンをみつけて復讐するためである。
ジェーンの洞察力で事件は解決していくが、話はわかりやすい。ジェーンはいつも紅茶を飲み腹を空かせている。優雅なのにお茶目。そして孤独。そんなジェーンと喧嘩しながらもほっとけないリスボン。ふたりにロマンスでも生まれるかと思ったが、友情が深まっていく過程かな。いまは3シーズンの途中だ。これで終わりだと思ったら、7シーズンもあると知って、先は長いとため息をつく。
『メンタリスト』の話ではなく、『アイ・キャン・スピーク』であった。
この映画も役所にいろいろと陳情や訴えを持ってくる高齢女性と若くて優秀な役人とのコンビが笑わせる。笑わせて泣かせる心あたたまるお話なのだ。でも、もしかして日本では上映されていないのかも。
理由は従軍慰安婦問題が描かれているから? 最後に主人公の女性が安倍さんのことを批難するから? でも、外国の映画ではよくあることではないの。よその国の偉い人を非難したり茶化したり。この映画でホワイトハウスの公聴会に出てくる日本人は、ほんとうにクズみたいで嫌になるが、この映画のなかでは、韓国の偉い人や役人も茶化して描き笑いを取る。どこの国でも同じだわと笑う。
目くじら立てることはない。映画なんだから。テンポはいいし、役者たちの演技もうまい。自然な流れ。韓国映画はうまいなあ。最後は久しぶりに泣かされて、さいごの字幕に「ごめんなさい」と頭を下げた。
伊藤比呂美『たそがれてゆく子さん』
『たそがれてゆく子さん』 伊藤比呂美 (中公文庫)
きのう本屋で別の本を探していたけど、この本をまだ読んでいなかったと買ってしまい。1日で読む。
著者と同年代である。『良いおっぱい、悪いおっぱい』からお世話になっている。伊藤比呂美さんの本を読みながら、自分のやり方は悪くないんだ。がさつで何が悪いと励ましを受けた読者はあまたいるだろう。
そして今回は、還暦を越えて夫の死を迎える。ひとりになる。
肉体的に精神的に下降していく自分、あらがい楽しむ自分、自分に鞭打って進むしかない。止まれば動けなくなってしまいそう。そんな伊藤比呂美にまたまた共感しながら読んでいた。
いちばん誰しもそうなのかと安心したところ。料理をしなくなること。
わたしはまだ夫がいるが、息子たちがいたときのように料理をしない。つくることは作るが、大根の煮物に厚揚げを焼いて大根おろしを添えたのがいちばん美味しいという感じで、シンプルなものしかつくらない。
むかしは生協の宅配で食料を買い、冷蔵庫も冷凍庫もパンパンだった。いまはすかすかである。そんなに買いだめもしない。なければ納豆ご飯でいい。夫が山の家へいっていてひとりな時は、本に書かれているような感じなのだ。
P70「今は同じものばかり食べている。グラノーラ。牛乳。卵。バナナ。ブルーベリー。アーモンド。アボカド。昼も夜も朝食のようなものを食べるだけ。」
ほとんど同じ。アボカドではなく納豆ご飯がはいる。味噌汁も作らないで、納豆ご飯+卵かけて、たんぱく質は摂ったことにする。朝昼晩これでも不満ない。お菓子は食べている。お弁当買っても美味しくない、外食はお金かかるし美味しくなかったらがっかりだ。インスタントラーメンも好きだけど、胃にもたれる。グラノーラでなければ、お粥を炊いたりもする。
高齢者の一人暮らしの方できちんと三食つくって食べていた人がいたが、偉いなと思う。きちんと食事しなければと思うけど、夫がいないとAmazonプライムでドラマを見ながらグラノーラを食べている。
わたしも料理好きと知られていたのだ。お客様をもてなしもした。お菓子も作った。
そういうのがいっきに終わってしまった。息子たちがいなくなったせいだけではないかもしれない。疲れたのだ。なにもかも過剰だった。子どもを腹いっぱいにさせることが使命で、お客さんにも美味しいものを食べてもらいたかった。
息子たちが帰省してもお客が来ても、むかしのようには料理ができなくなっている。シンプルなものだけ。あの力は湧いてこないのだ。この本を読んで、そういうものなのかもしれないと思う。
もう「料理しない人」と認識してもらおう。
長男が妻に母の料理自慢をしたらしく、結婚する頃に「お母さんの料理が食べたい」と言っていたらしいが、もう終わっているので、長男夫婦が来てもジンギスカンしかしていない。
ジンギスカンというものはありがたいものだ。
逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』
今話題の『同志少女よ、敵を撃て』を読みました。
少し前にNHKラジオ「飛ぶ教室」で高橋源一郎が紹介していたので、図書館で検索したら、すでに蔵書されていた。もちろん貸し出し中。一昨日、図書館から貸し出しできるというメールが来てすぐに借りに行き、昨日1日かじりついて読みました。他にも予約が入っているみたいだから、早く読んで返そう。
まったく、すごい新人がでてきたものだ。世界には才能がある人があふれている。それは、この信じられない世界でひとつの希望かもしれない。
戦争は人を変える。殺し屋に強姦魔に略奪屋に。ただの兵隊ではおわらない。日本だけではない。「他の国でも同じ事をしている」という言い訳を読んだことがあったが、人間としての尊厳を捨てずに生きてほしい。この本にも書かれているけど同調圧力、仲間のきずなとしての暴力が必要ということからどう抜けられるのだろうか。
最御で最後でこの物語のできるきっかけがわかる。