胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

文化の日

・美味しい珈琲、不味い珈琲
 昨日、山の家に帰る途中に某町に寄りました。美術展を観るためです。少し歩いて昼も近いので一休みすることにしました。でも、ランチを食べるほどではありません。コーヒーを飲みながら、もう少しで読み終わる『「豊かな社会」の貧しさ』を読んでしまおうと、ある蔵の茶店に入りました。ずいぶん昔に入った覚えがありますが、久しぶりで他にお客はいません。
 カフェオレを注文しました。最近、乳製品を控えています。毎朝カフェオレを飲んでいましたが、朝は薄い珈琲を入れて牛乳はなし。でも、カフェオレが好きなので、お店では注文します。
 仕事の帰りに10日に1回ぐらい寄る「R」でもカフェオレを頼みます。熱々のカフェオレに珈琲の味。その日あった嫌なこともイライラも後悔も忘れて美味しいなあと思います。流れるのは懐かしいシャンソン。優しげなオーナー夫妻。ゆったりさせてくれます。。
 そういう感じで、昨日も珈琲に口をつけました。「ぬるい」と思いました。「珈琲の味もしない」とも思いました。しかし、私の勘違いかもしれないと思い、もう一度飲みますが味がないのです。あの癒しのカフェオレがありません。私は心の中で慌てていました。違うよーと。表向きは本に没頭していましたが、がっかりしていました。そうして、思い出したのです。Yちゃんがここの珈琲を美味しくないと言っていたのを。Yちゃんは、有名な珈琲店で働いているし、味にうるさい人だから、批評も厳しい。その時は、いつものYちゃんの厳しい批評のひとつだと思って、ただ聞いていました。
 そうか、このことなんだと理解しました。しかしである。Yちゃんともずいぶん会っていないし、その話を聞いたのは5年か6年前。そうなると、珈琲の味は不味いまま変わらないということになるのだろうか。恐いことであります。
 まあ、本を読む場所代だと思うことにして本に没入しましたが、お代金は500円でした。美味しい「R]のカフェオレより高いお値段。もう来ることはないでしょう。いい勉強しました。珈琲の味がわかる方ではないけれど、味もお店の人の接遇も反面教師になるものでした。気を付けなくては。


・本を読む家族
 山の家には長男が先に来ていて、山から間伐材を下すのを手伝い、薪割りを手伝っていた。そうして薪ストーブの周りでごろごろし、本を読む。長男が1泊めに盛岡に泊まったので、その時にお互いの近況は話してしまったので、私は読みたい本を読み、長男も本を読んでいる。夫は部屋で仕事。
 私は、千葉の実家では本を読めない。すごく読みたい本があり、続きが読みたいけれど我慢。なぜかというと、前に私が本を読んでばかりいると母とけんかになったから。本は読まないで、母の話し相手にずっとなっていないといけない。家族の近況から近所の話、私が知らない人たちの話、繰り返される昔話と自慢話。終わることを知らない。
 自分はというと、たまに帰ってきた息子にそれほど話すこともなく、ふたりで本を読んでいる。
 息子は、本を買うお金もないのでと、盛岡と山の家の親の本棚からあれこれと鞄に本を詰め込んで行く。私は、息子に「谷口ジローシートンの本がないけど、どこにあるんだっけ」と聞くと、自分が持っているとのこと。私が気にいって買ったものを自分のものにしている。
 息子は、引越しの時に本をたくさん持って行った。私は「もう読んだ本でしょう。置いて行けば」と言ったが、「この本が本棚にないと落ち着かない」と言っていた。気持ちはわかるかもしれない。そうやって自分の巣ごもりの場所を作っている。


・秋刀魚を炭で焼く
 夫も長男も「秋刀魚を食べたい」というので、秋刀魚を買ったが、ガス代のグリルが壊れている。そこで、ジンギスカン用の穴あきバケツで焼いて食べた。炭焼き秋刀魚が美味しい。今度、七輪を買って、いろいろ炭焼きにしてみよう。
 今日は午前中に盛岡に戻り、長男は仙台へ帰っていった。たぶん、自分のアパートに帰ってほっとするのだろう。私もそうだった。実家はよその家になっていく。