胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

友達がこの本を「読む?」と置いて行った。たぶん、私が精神障害者ソーシャルワーカーの仕事をしていたからだろう。
でも、難しそうでしばらく積んでいたけど、先週何気に読みだしたら止まらなくなり、いっきに読んだ。

ユダヤ人虐殺の前に秘密裏に進んでいた障害者殺害計画。国家の役に立たない「ごくつぶし」は殺せということ。でも、国民にも秘密にしていられなくなる。
病院や施設にいた障害者がどこかに移動させられる。大型バスに乗って、殺され焼却される施設に運ばれる。
家族にも内緒。
殺されると、家族にはみんな同じ文面の手紙が届く、移送された病院で、インフルエンザで脳溢血で肺炎で死んだと。伝染病の懸念があるので遺体は焼却したと。骨が欲しければ、骨壺を送りましょうと。移送されるまでは、元気な人たちがあっという間に同じ日に死んで、家族はおかしいと思う。
殺されていい障害者は、どんどん拡大していく。そして、子どもたちも。障害がなくても、反社会的や集団に溶け込めない、反抗的と思われたら、移送リストに名前が載ってしまう。
老齢になれば誰でも障害を持つ、戦場で精神を病んだ人や怪我した人も対象にしかねない勢い。
 

こうした無数の精神病患者の突然の死は不自然であり、意図的な行為にちがいないというほとんど確信にちかい疑念が沸き上がる。いわゆる価値のない生命を殺してもかまわない、民族と国家にとってその生命に価値がない場合には罪のない人間を殺しても許されるという前提が、かかる行為の考え方にある。これは恐るべき思想である。罪のない人間を殺していいことになる。もはや働けない人間、身体障害者、不治の病人、年老いて弱った人間を殺してもかまわないという思想である。「ミュンスター司教の説教」より

誰が人の生命に関して「価値がない」と決められるのだろうか。でも、それを決めている人たちがいた。

著者は、アメリカ人で障害をもっている方。優生思想というものがドイツだけのものだけではなく、その頃アメリカにもヨーロッパにも広がっていた。それがあまりにも剝き出しの形でドイツで表現されてしまった。
なぜなんだろう。
ハンナ・アーレントが言う「凡庸な悪」があるのだろうか。
「私は命令されていたからやった。やらなければ私が処罰される」
でも、医者は率先して殺していた。何もしない医者もいた。手は貸さないけど、貝になった。関わりを避けた。

障害を持っている人たちに対して、「税金の無駄使い」「ごくつぶし」という人たちは日本にもいる。でも、思わないのだろうか、いつか自分も働けなくなる日が来るかも。交通事故で障害者になったり、鬱で仕事に行けなくなったり、絶対ならないと思っているのだろうか。たえず、自分は強者。
そうして、強者のものさしはお金。ついでに学歴や家柄。

そうして、何度も同じことが繰り返される。経済や生活が苦しくなれば、その責任を弱者に持っていく。でも、本当は政治の失敗だったのではないか。ナチスも失敗を隠すためにやっきだった。それが凶器になって行く。日本にもそういうところがあった。

この「安楽死」計画は、教会の有力司教の反対運動で中止になった。でも、その後のユダヤ人虐殺には教会は大きな声をあげていないようだ。

こんなことはもう起こらないよ、と思うけれど、「生命への価値」という思想がなくなったとは思えない。