ウィルス感染映画3本:『コンテイジョン(Contagion)』『アウトブレイク(Outbreak)』『感染列島』
『コンテイジョン(Contagion)』 2011年
有名どころの俳優が出てくる。映画の最初が感染2日めからはじまる。そのとき何故?と思ったが、ラストでその意味が分かる。感染もとがわかったのだ。いまさら遅いことではあるけれど。手洗いは大事だと教える映画。今週、旅行に行くのだ。それも南に。神経質になってしまいそう。
『アウトブレイク』 1995年
これは『コンテイション』より古い映画。まだSNSも発達していなかった。軍部の陰謀とアフリカからの感染サルの密輸からはじまったウィルス感染劇。『コンテイション』のほうが現実味があるけど、いざとなったら町を丸ごと消滅させるのかという怖さがある。隠微のためなら何をやるかわからない人たちは実際いるだろうということで、ウィルよりそちらが怖い。ダスティン・ホフマンの演技を久しぶりに見た。
『感染列島』 2017年
監督:瀬々敬久
久しぶりに日本映画を観た。悪くないけどアメリカ映画に比べるとリアルさがないのだ。そして、最後になんで空に向かって泣き叫ぶのだろう。そのアップが長いので飽きてしまう。大事な人を亡くしたとき車も通らな道を歩いて叫ぶこともあるだろうけれど、ガス欠した車に戻るのか? とか、その服装は雪の中で寒くないのか? とか余計なことを考え最後は泣き叫んで、わたしはしらける。もし、アメリカ映画なら。病院の外にでてものに当たる。車を蹴っ飛ばしたりそこらへんにあるものを投げる。そしてベンチに座り込んで歯を食いしばって泣くだろう。自分だったらどうするか。草原に行って泣かないで家に帰ってさめざめ泣くか車の中で泣くだろう。物にもあたるかもしれない。そういうわけで、どアップで泣く場面をとめてお風呂に入ってしまった。お風呂から上がって続きを見たら、主人公はなぜか北海道の医者のいない寒村の診療所で働いている。そのつながりがわからない。映画のラストの流れで行けば、大事な人と同じように助からない命を助ける使命をもち、ウィルスに立ち向かうか、自分たちが試した新しい治療法を確立するために研究するとか、難医療に行く方が自然ではないのだろうか。大事な人の最期の挑戦はどうなるのだ。日本のいい人は、僻地で働くというステレオタイプが見えて、再度がっかりして終わる。
やはり日本映画は単調。緊迫した場面でも、アメリカ映画や韓国映画だとジョークの一つでも飛ぶのだけど、まじめで、前触れもなく突然「こんなことやって意味あるのか」と芝居っぽく切れる。なんだか、ため息だわ。
映画の最期に出てくる「明日、地球が終わろうとも、1本のリンゴの木を植える」という言葉はいい。誰かの詩なのだろうか。その言葉が僻地医療に向かうつながりがわたしにはわからなかった。