梯久美子の『狂うひと』他
この本を前から読みたいと思って忘れてしまったけれど、夫が吉増剛造著『剥きだしの野の花』を読んでいて、食卓のテーブルに置いてあるのをパラパラ見たら、島尾敏雄とミホさんのことが書いてあり、島尾ミホさんだと思い出した。
島尾敏雄の『死の棘』を読んだのはいつのことだろう。身につまされるものがあった。原因がちがうけれどわたしも荒れ狂っていた時代があった。声はでなくなるし、死にたくて外に出て夫が追いかけてくる。とにかく東京に帰りたかった。荒れ狂うこころとホームシックはどっしりこころにあるけれど、あきらめと飼いならし、映画を観て逃避して人生が終わるのを待っている感じだ。
夫は『死の棘』も島尾敏雄も読んだことないと言う。わたしは「怖いよー。面白いけど、すごく怖い」と言う。映画も観たけれど、小説のほうがずーと怖い。本を読んだとき、この親に育てられた子たちの苦労を思ったものだけど、長男は写真家になり、長女のマヤさんは言葉をうしなったと聞く。天使のような方だったらしい。
『死の棘』の世界を経て、島尾ミホは自分になっていき、夫とは別の物書きになっていく。
その島尾ミホの自伝。島尾敏雄が1986年に亡くなってから、島尾ミホは奄美で暮らした。ミホは2007年に亡くなる。
映画『海辺の生と死』も観たが、美しい加計呂麻島の長のような人の娘と特攻隊長としてきた青年との恋。その恋物語は玉砕し美しく終わり島の伝説になるはずだった。でも、あれっである。戦争は終わってしまった。映画はそこで終わるが、そこから物語は続く。そして生活も続く。
島尾ミホさんの書いたものも昔読んだ。でも、今回の本に抜粋されている文書を読むと、ありありと風景が見えてくる。わたしが沖縄へ行って南の樹木に触れたからかもしれない。カジュマルの気根がたれた様子など、植物たちがせまってくる。また、読み直してみたい。
吉増剛造さんの詩はむずかしくて読めないと思ったけれど、これは読める。「遠野物語」や東北についても書かれている。
すごいふたり。「そうでございますね」と語り合う貴婦人のようなふたりは、もういなくなった。島尾ミホの育った南の島、石牟礼道子の育った水俣。海の幸が豊富でもののけ親しい時代。おふたりがお正月の食べ物や儀式など読むと、今の時代はすべてが簡単で家庭の中だけに納まってしまって、つまらないことだと感じる。もう戻ってこない世界。海には魚があふれたいたのだ。
島尾ミホさんの晩年は、島尾敏雄とミホの物語を伝説に変えようとする営みだったのかもしれない。
南の島の女性の強さも感じた。同じように狂って暴れた高村智恵子も入院の中でようやく自分の才能を開花していったが儚く死ぬ。時代が違うけれど東北の自分をおさえる女性の姿があるような気がする。狂うことでしか生活という呪縛からでられない女たちを思う。