胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

高見順『敗戦日記』

 

『敗戦日記』高見順(中公文庫)

 

 高見順の日記から昭和20年(1945年)の1年間の記録が載っている。

 高見順は、鎌倉に住む文士。でも、疎開するお金もないので、悩みながらも鎌倉を離れることができない。「文学報国会」という団体にも所属していて、会議のために東京へ行く。その間にも東京がどんどん空襲で焼けていく。その焼け跡を見るために電車に乗って東京へ行っては歩きまわる。そうして伝手をつかって酒を飲む。「酒が好きではない」と書きながらも、飲んでばかりいる。酒飲むお金あるなら疎開しろ、いつ爆撃が来るかわからないだろう、と思うが、ほとんど運命に任せている諦めもある。

 でも、生きていると食べなくてはいけない。鎌倉文士が本を出し合って貸本屋鎌倉文庫」を開く。本など買えない時代に、本を読みたい人は多く、文庫はとても繁盛する。

 

 高見順の記録は、東京の町の様子だけでなく、新聞の報道の内容も書き記す。

 新聞が太平洋での負け戦を隠し、戦争を煽る様子を嫌悪する。それが、敗戦直前まで勇ましい論調である。そのことを誰も謝らない。国民が飢えと貧しさの中にいることも誰も責任をとらない。

 読んでいると、現代に通じるものが脈々とあって、声の大きなものが世の中を動かす。心に思うことがあっても、何か言えば投獄される危険がある。文士たちも当たり障りないことを書いて、日々をやり過ごし書けなくなる。国威高揚するようなものを書ける人はいいが、高見順には書けない。だからか、日記を精力的に書く。知人に「日記なんて危なくて書けない」と言われる。本音を書いた日記は非国民の証拠にされかねない。

 

 7月26日の日記に次のような折口信夫の言葉が書かれている。「情報局関係のすべての文化芸能団体のものが集まる会だった」ところで、いろいろな意見が出る。そこに

折口信夫がこれまた国学者らしい静かな声で「安心して死ねるようにしてほしい」と言った。すると上村氏が「安心とは何事か、かかる精神で・・・」とやりはじめた。折口氏は低いが強い声で「おのれを正しゅうせんがために人を陥れるようなことをいうのはいけません」と言った。立派な言葉だった。こういう静かな声、意見が通らないで、気違いじみた大声、自分だけ愛国者で、他人はみな売国奴だといわんばかりの馬鹿な意見が天下に横行したので、日本はいまこの状態になったのだ。似而非(えせ)愛国者のために真の愛国者が投打追放され沈黙無為を強いられた。今となってもまだそのことに対する反省が行われない。」

 

 

 反省は行われずに21世紀となり、また同じことの繰り返しが行われているように見える世の中になっていないだろうか。

 

 折口信夫、かっこいいな。

 NHKオンデマンドで「100分で名著」で折口信夫の『古代研究』を見てみる。折口信夫ほどの愛国者はいないと思う。でも、そんな知識など軍国主義には必要はないのだ。

虎の威を借りて威張りたい人がのしあがっていく。難しいことは考えなくてもいい。同じ文句を唱えて演説していればいいのだから。「国家一丸となって」「神の国」等々の言葉をつないでればいい。折口信夫のように万葉集をひも解いたりしなくていい。

 折口信夫が死にたくなるのも無理はない。

 

 ぜひこの本は読んでほしいので、会う人には「面白い」「折口信夫がかっこよかった」と宣伝している。