胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

映画「日本と原発4年後」

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『日本と原発4年後』 2015年  監督:河合弘之

先月、福島の被災地をまわるツアーに参加して、帰還困難区域にもはいり浪江町飯館村などをまわってきた。そのこともあるところで報告するのでまとめているところ。

ツアーに参加する前に本を読んだりして勉強していたけど、この映画は見ていなかったので、視聴する。

「日本と原発4年後」とは、2015年の撮影なので、請戸地区もまだ片付いていない。

あちこちにフレコンバッグが積み重なっている。

今回のツアーでは、フレコンバックが続く風景が見られると思ったが、目にすることはできなかった(少しはあったが)。どこへいったのか。山の中などの人の目に触れないような仮置き場に移されたようだ。もしかしたら、オリンピック前にかたづけられたのかもしれない。処分方法は決まっていない。放射能廃棄物なのだから、厳重に管理されないといけない。でも、日本はそういうところはいい加減なような気がしてくる。

 

原子力村の構造がわかりやすく説明されている。でも、もとになるお金は税金。

 

2022年10月は、請戸はすっかりきれいになり、震災遺構として請戸小学校は残されたが、漁港も再開されている。近くでは「福島イノベーション・コースト構想」がはじまって、近未来都市を国は描いている。

 

生活と健康を奪われた人たちを踏みにじって、原発安全神話のあとは、放射能心神話を流して、原発事故を国民が「終わったこと」と思わせようとしている。まだなにも終わっていないのに。

 

映画のなかで原子力委員にもなった元キャスターの木元教子は、「今の生活を手放せないでしょう。停電があるなんていやだ」というような発言があったが、わたしはわたしたちが節電ではなく、生活のダウンサイズしていかないといけないと思う。

わたしたちの働き方生活を変えていかないと、原発は嘘の塊の象徴として残り、また大きな被害をもたらすだろう。自分が被害に合わないとわたしたちはわからないのだろうか。人の痛みを知る想像力を枯渇させてしまったのは誰なのだろう。

 

あと、「3.11子ども甲状腺がん裁判」口頭弁論の期日集会などをYouTubeでみて、今日も日が暮れてきた。

 

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好きなイギリス俳優が出ている映画2本。

 

スーパーノヴァ』 2020年 監督・脚本 ハリー・マックイーン

 

 主演は、コリン・ファーススタンリー・トゥッチ

 コリン・ファースは音楽家。スタンリー・トィッチは作家。ふたりは若い時に出会い愛し合い、30年連れ添って一緒に暮らしてきた。だが、作家は認知症となったようだ。冗談を言い、明るく振る舞うが、服を着るのが難しい、道がわからなくなる。音楽家は世話をする。

 男性同士の夫婦というのがじっくり上品に描かれている。家族や友達も二人を見守り心配する。まわりもいい人たち。ただ、書けなくなった作家には自分の最後に覚悟があった。

 映画はイギリスの湖水地帯をドライブする光景がつづく。わたしは走っても走っても看板ひとつない美しい景色に感心する。日本だったら、どんなに田舎へ行っても看板があちこちにある。きっと規制されているのだろう。

 

ネタバレになるので詳しく書けないが、ラストは『男と女 人生最良の日々』のようであったらいいなと思った。

 

 

『ファーザー』2020年 監督 フローリアン・ゼレール

 

 主演は、アンソニー・ポプキンズ。認知症を患った知的で頑固な父親役を演じてさすがだ。

 この映画は、主人公の混乱が私たちの混乱となる。どちらが現実なのか、このフラットは誰の家なのか。絵の位置が変わっていないのか。主人公の部屋だけは廊下の突き当りにあることは変わらない。いろいろなものが観ているほうも不確かになる。目が離せなくなる。現実で正しいことを判断しようと、自分の認知を守る。でも自信がないと目の前にあることを現実だと受け入れるしかない。確信が揺らぐ。人を疑う。さいごは自分を疑う。そして子どもに戻って守ってもらいたい。不確かな世界から安心する世界に。

 

ちょい役で出ていたマーク・ゲイティスを見ていたら、「シャーロック」を見たくなった。すでに2度みているのだが。しかし、この映画のなかで、高齢者虐待があることも暗示しているのかもしれない。

 

気がつけば、『スーパーノヴァ』も『ファーザー』も認知症について描かれている。イギリスも認知症になる恐れが強いのかもしれない。だからこそ『スーパーノヴァ』の最後はわたしには困るのだ。支援されることを嫌がる姿。それが自立した人間だと伝えていないだろうか。

そして映画に出てくる家庭は、どちらも生活が困らない階級の人たち。いい介護人や施設も選べるだろう。庶民の場合はどういう福祉制度がイギリスにあるのか気になるところだ。

 

 

映画「原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち」

先日、この映画をみるために雨の中、仙台へ行きました。

 

原発を止めた裁判長 原発をとめる農家たち』 監督:小原浩靖 

 主役は、樋口英明元裁判長。

「2017年8月、名古屋家裁部総括判事で定年退官。2014年5月21日、関西電力大飯原発3・4号機の運転差止を命じる判決を下した。さらに2015年4月14日、原発周辺地域の住民ら9人の申立てを認め、関西電力高浜原発3・4号機の再稼働差止の仮処分決定を出した。」

 という人だ。樋口さんは定年退職後は原発の安全性に関する講演をしてまわっている。樋口さんが説明する原発の耐震性が脆弱なことを指摘する。一般住宅より低い。それを「安全だ」ということに疑問を呈する。

樋口さんの判決文の最後に書かれてある言葉が素人のわたしにもわかりやすく、胸に落ちる。

他方,被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性,コストの低減につながる と主張するが(第3の5),当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関 わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わった り,その議論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考 えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼 動停止によって電力供給が停止し,これに伴なって人の生命,身体が危険にさ らされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。 被告の主張においても,本件原発の稼動停止による不都合は電力供給の安定 性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出 や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字 出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそ こに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すこと ができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。 また,被告は,原子力発電所の稼動がCO2(二酸化炭素排出削減に資す るもので環境面で優れている旨主張するが(第3の6),原子力発電所でひと たび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって福島原発 事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境 問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。

 

「国の富」とはなんだろう。この大地であり、住んでいる人間や動物たちではないかということ、それを一時の金儲けと比較できるだろうか。樋口裁判官の言葉をきちんとマスコミが伝えれば、誰にもわかることだと思うのだが。

 

原発の事故は、わたしには恐ろしかった。山の家はホットスポット地域で、山菜も茸も食べてはダメ、薪も燃やしてはダメと言われた。うちもまわりの年寄りも守りはしなかった。でも、町の人にタラの芽のお土産を配ることは、あれ以来していない。

 

福島の原発事故はいろいろな偶然が重なって、あの程度の事故におさまった。もっと大きな事故となる可能性があった。そのときは関東から東北は住めなくなる。それだけの人口がどこに避難するのだろう。

 

ニュースで原発の安全審査の話をしている。避難計画をきちんとしているかどうか。

いやいや、そんな避難をしなくちゃいけないものを作るなよ。怖すぎるではないか。普通に冷静に考えて、原発はやめた方がいい。

自然エネルギーの可能性を研究し、わたしたちはダウンサイズな生活をしていく。省エネを本気で進める。自動販売機はいらない、店も遅くまで開けなくてもいい。ヨーロッパなどでは土日に店が閉まっているとか自動販売機ないとか、聞く。便利さの追求はやめたい。そのためにも長時間労働を改善して、平日に買い物や料理をして、土日はゆっくり過ごせるようにしたい。

生活や制度を変えることが必要で、映画の公判では、農家の人たちの姿が描かれていて希望が見える。

山を崩しての太陽光発電システムには抗議の声が上がっているが、山を崩さないで太陽エネルギーを得る方法もある。考えていけばできることはいっぱいあるように思う。

 

しかし、企業や役人は今の地位や利益を守ることを優先させる。

 

日曜日には、福島原発告訴団団長の武藤類子さんのお話を聞く機会があった。

福島は原発事故も復興の利権に群がっている人びとがいることを指摘する。事故前は安全神話をばらまき、事故後は放射能は怖くないと啓蒙活動をしていく。箱モノは立派になり、福島の復興を謳いあげ、子どもたちにこれほどの甲状腺がんがでているのに、因果関係を認めない。国策として原発振興していた国の責任がないのはおかしい。

でも、国もマスコミもいろいろな勢力が福島を忘れさせるのに必死のようだ。

 

福島はいまだに「原子力緊急事態宣言」が解除はされていない。解除できない状況が続く。

福島県民の放射能の安全基準は、20ミリシーベルト以下。ほかの日本国民は、1ミリシーベルト

福島へ戻らない人たちをなんで私たちが何か言うことができるだろう。住んでいる人たちは悩みながらも生活している。

 

それでも、わたしもニュースを聞いているだけだと、福島の現状はよくわからない。だんだん復興しているようなイメージも持ってしまう。マスコミはいいニュースしか伝えない。オリンピックのためには弱い人たちは切り捨てられていった。

 

もういちど福島を考え、原発のことを考えないと、日本はディストピアだと思う。今だけ自分だけの利権を貪り食う人たちは、いちばん儲けるのは戦争だと気がついているだろうから。戦争は怖い。こんなに原発があるのだ。

むかし、ある年寄りから「日本はあの敗戦を立ち直ったのだ。日本人はどんなことも乗り越えられる」と言われたけど、戦敗れて山河ありだった時代ではない。山河が近寄れないものになり、故郷に帰れなくなるかもしれない事態になるのが日本の現状だと思い出さないといけない。

気仙沼へ

先週のことだけど、電車で気仙沼にいった。「いわてホリデーパス」を使えば往復2500円。朝4時20分に家を出て盛岡駅まで歩く。夫はまだ寝ている。あれ、30分少しで着くと思ったのに、もう5時近く。発車は5時11分。最後は駆け足で駅へ。帰って来てから夫に「出る時間を誤った」と話したら、「歩くのが遅くなったんだよ」と言われた。そうなんだ、今までは歩くのが早いと言われていたのに、最近は人に追い越されたりする。足におとろえが出てくる。

 

それはともかく電車に乗れた。乗客はそこそこいる。外は霧が深い。普通の通勤電車なので、横一列のシート。だんだん晴れてきて外が見えるようになる。稲刈りがはじまっている。「あ、ぼっちだ」と思う。

奥州にはいると、稲のはせ掛けが縦に重ねて積んである。行き来している盛岡と遠野で見るはせ掛けは、平行棒に並べていくやり方だ。

育った千葉で落花生を収穫して乾燥させるのも、積み上げて塔のようにする。それを「ぼっち」という。いわれはわからないけど、落花生畑に一つひとつ離れて立つ姿はひとりぼっちの様子がある。

小さい頃は団地のまわりに落花生畑が広がっていた。いまではその畑も家が建つ。山も削って家が建つ。空き地には家が建つ。景色は変わってしまった。

 

奥州のぼっちはなんと呼ぶのだろうか。帰ってからTwitterを見ていたら「ほんにょ(穂仁王)」と書いてあるものがあった。稲穂の仁王様か。こちらの名づけは勇ましい。

 

一関駅で大船渡線へ乗り換え。待ち合わせ時間がある。

大船渡線はシートが向き合わせで、外がよく見える。砂鉄川が豊かな川幅を見せる。猊鼻渓あたりを過ぎ、彼岸花が咲くあぜ道をみたりして飽きなかった。沿岸に近づくと、稲のはせ掛けは平行棒になっていた。気仙沼には8時45分に着く。

岩手ホリデーパス

 気仙沼駅の観光案内所でいろいろ教えてもらう。観光案内所でリアスアーク美術館のチケットを買うと、500円ずつのタクシー割引券がついている。歩いて湾へ行けば、カフェなどもあるという。歩いて海まで行くと、おしゃれなカフェなどが並ぶ。若い人たちが準備をしている。なにかイベントがあるようだ。海沿いを歩こうと思ったけど、陽ざしが暑くなってきた。家を出るときは寒くてショールを持ってきたけど、帽子を忘れた。タクシーを頼んで美術館へ行く。タクシーの運転手さんが「ここまで津波が来た」「ここは田んぼだった」と教えてくれる。

 11時半に気仙沼在住の俳人Kさんと待ち合わせてランチなので、急いで展示を見て歩く。震災の記録の展示を一つひとつ見て回るのは時間がかかる。わたしは津波直後の沿岸を見ていない。見ておけばよかったのか。でも、のこのこ行くものではないと思っていた。釜石の夫の実家が流されて、夫が父親を探し出して盛岡の家に連れてきた。義父は認知症津波の時はデイサービスにいて助かった。義母は避難所にいたが、もう義父と暮らしたくなかった。三沢から関西の親類の家に行ってしまった。もともと九州の人で関西に親類が多い。いま思えば、わたしは勤めはじめた病院もドタバタして、沿岸に行くどころではなかった。ボランティアもしていない。

でも、なにかすればよかったのだろうか。たいてい1日2日とボランティアした人は多いくて、その話を聞くけど、自分は何もしていないという劣等感みたいのがほんの少し芽生える。

 Kさんと美術館のレストランでランチをする。Kさんは、いまだに美術館の震災の記録は見ることはできないそうだ。知り合い、親戚が何人も亡くなっている。ほとんどの人が誰かを亡くし、一人ひとりにドラマがあると話してくれる。

 

 Kさんが復興祈念公園に案内してくれた。お天気が良くてすばらしい景色。亡くなった方の名が町内ごとに刻まれた碑がある。Kさんが「この人は、友人の夫」とさする。知っている人の名がいっぱいあるんだ。

 船の帆の形をした「祈りの帆ーセイルー」の中には祈りの場があり、湾が見える。Kさんがしばらく祈っていた。

 

 

「時間があったら、大島に案内したのに」とKさん。わたしは14時からのリアスアーク美術館でのパフォーマンスを見に来たので、美術館にもどる。「新・方舟祭」というイベントが開催中で、そのなかで、「気仙沼自由芸術派 朗読パフォーマンス」というのを見に来たのだ。

前から知っていた及川さんもゲストに出るという。お手紙でやり取りはしていたけど、はじめて会う。なんとも自由で柔らかい人。朗読もよかった。詩誌「霧笛」の千田ファミリーは声が良くてうっとりする。及川さんが畑のトマトや貰い物の梨やブドウを渡してくれる。ゆっくり話したいけど、16時15分の電車で帰りたいのでお別れする。

 帰りは一関駅での待ち合わせの時間が長かった。盛岡行きの新幹線に乗る人もいた。新幹線に乗りたくなったが、ホリデーパスは新幹線の乗車券にならないのであきらめる。一関駅から盛岡駅までは混んでいる。一列のシートに座りながら、「まだ北上か」などとホームを見て駅名を確認する。各駅は長いなあ。でも昔は総武線で通勤したこともあるではないかと思う。お金がなくて一時期実家にもどって、飯田橋まで通ったことがあった。遅い時間に総武線の各駅電車で千葉駅、乗り換えて外房線。朝は始発なのでわたしは座れたが、超満員の電車で出勤。よくあんな生活ができたものだと思い出す。ヒールのある靴も履いていた。若いからできたのね。

高校のときも電車通学。予備校は水道橋。大学は御茶ノ水。住んでいたのは学芸大学。結婚したのは小平市。その後は八王子に引っ越し。総武線に山手線、東横線に中央線。毎日の生活に電車があった。岩手に住んでからは、車生活。車ばっかりになると、待つ力がなくなってしまうのかも。歩くことも少なくなる。

 そんなことを考えながら盛岡に着いた。20時7分。駅から家まではタクシーに乗ってしまった。

 朝ドラの「おかえりモネ」を見ていなかったので、寝る前にNHKオンデマンドで「おかえりモネ」を見はじめる。ぜんぶ見るには時間がかかりそう。

ヤマナシの実

ヤマナシの実が今年はいっぱいなった。

借りている小屋の庭にヤマナシの木がある。

小屋の改修に手を付けたとき、このヤマナシの木は太い蔦にからまれ、まわりも細い柳の木があり、瀕死の状態だった。蔦を切るが、枝にからまってしまいはがせない。上のほうは無理だと思っていたら、根元が切れて腐れたのだろう何年かたって、蔦はきれいに落ちてなくなった。

そしてこの春のヤマナシの花はきれいにたくさん咲いた。

花が咲くと、スズメバチがこの木にくる。巣をつくるのかと見張っていたが、樹液があるのか、木の皮を巣づくりに運んでいるのかよくわからないけれど、しばらくヤマナシの木にいて飛び去る。

そのスズメバチたちがどこへ飛び去るのかを眺めている。どこかに巣をつくっているはずだ。

そんなスズメバチが来なくなった。ほかに良い木をみつけたのか、人間の家にでも巣をつくって退治されてしまったのか。

 

秋になり実をつけ、それは小さいのだけど梨の色形で、味も梨の味なのだ。

宮澤賢治の「やまなし」では、ヤマナシは川に沈んでひとりでにお酒になるとあったが、地上でほっておいたら腐れるだけだから、わたしはヤマナシホワイトリカーにつけた。どんな味のお酒になるだろう。

 

文庫の庭にあるヤマナシの実

今日、9/20の朝は風雨が激しくなっている。台風が通り過ぎているのだろう。昨日も蒸し暑かった。そとには出かけず読書。京都にでかけていた次男は「予定を変えてはやめに東京にもどった」とLINEが来た。

昨日は、地元の新聞の俳句評が書いてあるコーナーでわたしの俳句が取り上げられていた。新聞は取っていないけど、知り合いの俳人が朝一番にLINEで画像を送ってくれた。

読んでみると、私の前には先輩俳人のKさんの俳句も取り上げられている。

Kさんと俳句がならんでいることが嬉しかった。

ちょうど、日曜日にKさんと岩手公園を歩き、むかしは岩手公園に動物園があったこと、梅園であったことなど話してくれたのだ。80代後半で独り暮らしのKさんだが、句会に吟行にと出かけて、児童文学の研究もされている。もと幼稚園の先生で、この間まで教会の礼拝でオルガンも弾いていた。スタスタと歩ける。好奇心旺盛で、少女のようなところがある。こんなふうに年をとりたいと思う。

 

吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』

 

『単独者のあくび 尾形亀之助』 吉田美和子著 (木犀社・2010年)

 

この本は知り合いのTwitterなどに書かれていて目にはしていたのに読んでいなかった。

ページ数多くてお値段も高い。ようやくどっこいしょと読みはじめたらやめられなくなった。

最初の場面は、戦後、銀座のバーで草野心平辻まことが出会うところからはじまる。

草野心平尾形亀之助の『障子のある家』をそのままの姿で復刻したいと思っているが、その詩集は限定版で友人たちに配られたものである。焼け野原となり死んだ人も多い中で、さがすのが困難だったのだろう。それを辻まことに話す。

 

—それならばボクがもっています

 —なに? 本当か、どこにある

 —いまもっていますよ

 —いまってここにか

 私は「そうです」とポケットからだしてカウンダ―の上に置いた。心平さんは実に妙な顔付きでこれを眺めた。信じられないといった面持ちの一瞬だった。

 

 これは辻まこと尾形亀之助について書いた文章の一部である。辻まことは中国戦線で兵隊をしている間も尾形亀之助の詩集を持ち歩き、日本に帰って来ても詩集をポケットにいれていた。辻まことの伝記にはかならず入っている場面だ。ひさしぶりにこの場面に遭遇して泣いてしまう。わたしの青春が辻まことにあったからだ。

 

 それはともかく、それですっかりひきこまれてあの時代の尾形亀之助とそれをとりまく人々の物語にすっかりはまりこんで読み進めていくことになる。

 

 尾形亀之助は、1900年宮城県大河原町に生まれる。どんでもない資産家の家であった。さいごに家は没落し、亀之助もすこし働きには出るけれど、ほとんど勤め人にも収入のある芸術家にもならなかった。でも、絵を描いたり詩誌をつくったりし、さいごは詩集を出し詩人となるのだが、仲間内で知られる詩人で一般の人がその名を知ることはない。

 1942年、仙台の街の中でたおれて亡くなる。ゆっくりとした餓死自殺だったともいわれる。これから日本の戦況は厳しくなって、挙国一致スローガンのもと、兵隊にもなれない勤労奉仕もできない役立たずの病人の詩人などはますます生きづらくなり、覚めた目で世間を見るのもつらいだろう。戦後のやる気に満ちた文学界にはますます孤独を感じるだろう。よく早死にした文学者を「もっと長生きすれば」と悼む言葉があるけれど、尾形亀之助は長生きしなくてよかったかもしれないと、本を読みながら思ったりする。

 

尾形亀之助宮沢賢治の関係もこの本に書かれている。関係はそれほどないが、尾形亀之助がだした詩誌『月曜』に宮沢賢治の「オツベルと象」や「猫の事務所」を掲載している。尾形亀之助高村光太郎草野心平から親切にされていた。そのつながりで、宮沢賢治のことは知っていたが、会ったことはなかった。

宮澤賢治というと、「雨ニモマケズ」にでてくる。デクノボーというものに、賢治はなりきれなかった。賢治は根が真面目だし、信仰や家族との絆も強いとみれる。

でも、この本を読むと尾形亀之助こそが、徹底したデクノボーでありえたと思う。

 

先月、太田土男先生がとってくれたわたしの俳句「でくの坊なるはむずかし青胡桃」があった。なるべく人の役に立つなどとおもわず、デクノボー的に生きたいと思っても、人間はついつい人の役に立ちたくなるものだ。いい人と思われたくもなる。

この本で、尾形亀之助のデクノボーぶりを見てなんともいえないくらい面白い。尾形亀之助がお金の苦労をしてこなかったためか、お金に執着もない。根が育ちがいいという感じを受ける。デクノボーの王子様、尾形亀之助はなにを考えていたのだろうか、そんなことを思いながら本を閉じた。

 

 

秋田へ

秋田へ行ってきた。新幹線こまちで1時間半もかからない。

夫が仕事があって秋田へ行くというので、「ずるいわたしも行く」となった。最近は町の家と山の家の往復ばかりで、少し飽きていた。

東北割というのがあって安く泊まれるというので、1泊することに。

夫との旅と行っても、行きも帰りも新幹線は別々。ホテルの部屋もシングルを2つ取る。家にいても別々の部屋だし、寝る時間がちがうので別のほうが気が楽なのだ。

1日め、わたしは早く秋田につき、無印良品で秋物のシャツを1枚買った。あとから来た夫と待ち合わせして秋田市民市場へ行き、お寿司のお昼を食べる。少し値段の高い回転寿司。しかし、わたしは残りご飯で作ったおむすびをひとつ食べてしまっていたので、お寿司はヒラメを一皿とざっぱ汁(あら汁)を食べただけ。ざっぱ汁が美味しかった。

夫が仕事で人と会っている間、市民市場の隣にある「赤居文庫」で本を読んでいた。本が沢山はないけど、読みたくなる本が置いてある。飲み物の種類も多くて楽しそう。わたしは豆乳烏龍茶をたのんだら、大きなマグカップで出てきて飲みごたえがある。

読んだ本は『オオカミと森の教科書』。日本の森に狼を放すことはできないだろう。でも、鹿害のために泣く日々を思うと、狼に頼りたくもなる。鹿だけでなく熊も猪も増えているのに、絶滅した種はもどることはないのだなと思いながら。このままどうなるのだろう。戦争にでもなって日本が飢えるようになったら、我先にと鹿を狩るようになって、野生動物が減るのだろうか。それはとっても嫌だな。絶滅しないように、でも被害も少なくどうしたら一緒に生きていけるのか。いろいろ考えさせてくれる本で、読みやすい!

 

ホテルにチェックインして、夫と千秋公園をひとまわり。広いお堀の蓮の花も終わりかけているが、見ごろの時期は壮観だったろう。

 

ずいぶん久しぶりの秋田。

いつ来たか調べてみた。たまたま用があって秋田市に1泊したときに千秋美術館でアンドリュー・ワイエス展をやっていて見た記憶しかない。どこに泊ったかも覚えていない。ネットで調べたら、アンドリュー・ワイエス展は平成13年の4月から5月。ずいぶん昔のことだ。現在、千秋美術館は改修中でお休みだった。平成13年も千秋公園を歩いたが、だいぶまわりが変わっている。大きな芸術劇場や文化施設ができたり、カフェができたり。

千秋公園入口に「秋田市文化創造館」という施設がある。名称が固くてなんだろうと思った。若い人が外で喋り、中でテーブルに向かっている。入ってみると、広いフロアーに机とテーブルが置いてあり、自由に使っているようだ。本棚もあり、夕食の時間に早いのでそこで本を読んで過ごした。夫と「こういうフリースペースいいよね」と話す。盛岡にないナ。

「文化創造館」の庭に歌手の東海林太郎さんの像がある。わたしは「この人知らないけど、赤城の子守歌はわかる」というと、夫が驚く。「すごい有名だったよ。直立不動で歌って紅白にも出ていた」という。心の中で、だって12歳離れているから知らないよと思いながら、いや見ていると思い出した。名前は憶えていないけど、直立不動で歌っていた男性歌手がいたと。小さい頃にテレビで見ていた。

 

夕食は、川反どおりの「北洲」というお店。夫の友人が教えてくれたところ。川の見える座敷に座らせてもらって、ハタハタの塩焼きやお刺身で日本酒をいただいた。

 

2日めは、夫は男鹿半島へ行き、わたしは秋田県立美術館へ行く。

美術館は9時からと思ったら、10時から。どうしようと思ったら、となりにフリースペースのある建物があり、中で座って本を読める。テーブルもあるのでパソコンをひらいている人も。最近、胃腸が悪くてコーヒーを控えていたので、カフェに入っての時間つぶしもつらい。コーヒーも紅茶も飲まないで、飲みたいものが麦茶なら水筒を持って歩けばいい。でも、ベンチが少ないとひと休みができない。雨や暑すぎると屋内にひと休みするところがあるといい。その点、秋田市は駅のコンコースにもテーブルつきのベンチや面白いベンチがあり、待合室も工夫された椅子とテーブルがありゆっくりできる。町中なかにもベンチがある。なかなかいいと感心した。

秋田県立美術館は、藤田嗣治の壁画絵「秋田の行事」が見たかった。藤田嗣治は1933年(昭和8年)に日本に帰る前に南米を歩き、南米の壁画や色に影響を受けたと解説があった。パリで描いて人気のあった「乳白色の肌」の絵とは趣がちがいうが、庶民のいきいきした様子が描かれている。わたしは母親に鼻紙で鼻をふかれている男の子が好きだ。こういう小さなものを大切に画面のあちこちに入れている。

藤田嗣治のことは下記の本を読んで知った。

近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 - 胡桃の木の下で


美術館の特別展は「藤田嗣治 子どもへのまなざし展」である。戦後の戦争画の責任を言われ、美術界に日本に嫌気がさしてパリにもどってからの作品群。小さな絵を楽しみながら描いたのだろう。あの戦争画アッツ島玉砕」を描いたのが藤田嗣治の抵抗だったと思う。他の並みの戦争画とは違うと。画壇で偉くなるというより、自分の絵を描きたかっただけなのに。子どもの絵を見ながら、いろいろな細部を描きこんでいるときの平安を思う。

 

ホテルから2000円クーポンをもらったので、お土産にいぶりがっことハタハタの干したのともろこしを買う。

 

泊まったホテルはコンフォートホテル秋田。ロビーに本棚があって、読みたい本が並んでいる。もっていない谷口ジローの本を読めた。

 

去年は夫の取材について津軽をまわったのに、ぜんぜん記録していなかった。認知症になりかけているわたしは、泊まった場所や行った場所の名前を忘れてしまうのだ。なるべく記録しておこうと反省する。