胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

モモ

 ミヒャエル・エンデの『モモ 時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』を久しぶりに読んだ。
 ここのところのわたしは「時間がない時間がない」と追われている。仕事に家事に机の前に座る時間もないと爆発していた。昔のように朝3時に起きられなくなった。4時半には起きるが、夫と私の弁当をつくり、味噌汁つくり、夕飯の準備なんかしていると6時になる。7時過ぎには仕事へでるので、バタバタバタバタして、朝の時間もおわる。「時間がない時間がない」。仕事は嫌いではないけれど、もう少し休みが欲しい。

 そんななので、心を落ち着かせるために『モモ』を読みました。

 道路掃除夫ペッポの言葉 

P48
「なあ、モモ、」と彼はたとえばこんなふうに始めます。「とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 彼はしばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」
 ここで彼はしばらく考え込みます。それからやおらさきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 またひとやすみして、考え込み、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
 そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついた時には、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」

P75
 時間を図るにはカレンダーや時計はありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでもしっているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか1時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。
 なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。

 『モモ』が日本で出版されたのが1976年。今は2018年。42年まえから効率重視のよのなかになり、現代はどうなっているのだろう。人間に対して、生産性や役に立つ人材という言葉もよくつかわれる。子どもたちのいじめは陰湿で暗いものになる。子どもの自殺は多い。
 おとなが子どもに与えなくてはいけないのは、「ああ今日も楽しかったね」といういちにちなのに。

P247〜248
 モモの友だちとても、この新しい決まりから逃れられませんでした。みんなはそれぞれの住む地区にしたがって、べつべつに〈子どもの家〉にほうりこまれました。こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びを決めるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れていきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。
 しだいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれろ命じられたことを、いやいやながら、おもしろくなさそうに、ふくれっつらでやります。そしてじぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。
 たった一つ「子供たちがまだやれたことはといえば、さわぐことでしたーでもそれはもちろん、ほがらかにはしゃぐのではなく、腹だちまぎれの、とげとげしいさわぎでした。

 今日は土曜日で雨。机に向かってたいけど、車の修理に町へ行かなくてはいけない。買い物もある。午前中に用をすませたいと焦って書いていた。ゆっくり書いていたいのに。そこに、村の人が鹿肉をひとかたまり持ってきてくれた。ありがたいが、さばいて冷凍にする作業をしなくてはいけない。町へ行くのは午後にしようか。すべてを楽しくやりたいのだが、日常は「やること」で過ぎていき。ため息が出てしまう。


モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))