映画『福田村事件』
9月4日に『福田村事件』を観てきた。
関東大震災における朝鮮人虐殺は知っていた。加藤直樹著『九月、東京の路上で』他の関東大震災関係の本がわたしの本棚がある。なぜ、興味を持っていたか。昔むかし、教科書か何かで「関東大震災で朝鮮人が虐殺された」と読んだのが頭に残っていたのだろうか、辻まことのファンになり山に登っていたが、辻まことの母、伊藤野枝と大杉栄と大杉の甥が虐殺された。一時は殺された子どもは辻まことだったのではないかと思われていたと何かで書いていた。
大災害のどさくさに紛れて、憲兵が軍隊が一般の人々が殺しに走った。そうして平安になれば、みんな平気な顔をして生きている。
もし、そういうことがあったのなら、教科書にも書いてあることで、誰でも知っていることは、わたしたちは覚えて悼まないいけない。2度とこのようなことがないように。人の噂や人種差別で人を殺したりすることがないように。
今年は、関東大震災から100年。このときに、松野官房長官は、下記のように話している。(東京新聞Webより)
《松野博一官房長官は1日の記者会見で、関東大震災当時の朝鮮人虐殺について「昨日の記者会見での私の発言は、従前から国会答弁や質問主意書に対してお答えしてきたことを述べたもの」と発言。「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」とした8月31日の見解を崩さなかった。》
記録なんていっぱいあるではないか。政府内の記録もあると様々な反論が寄せられていても、政府には聞こえない。
このところ、あったことをなかったことにするのが流行っているのだろうか。自分たちのファンタジー的神話をつくって自分たちで信じている。日本は美しい。日本はすごい。
日本は、アジアを侵略してたくさんの人を殺した。世界史を習えば、第2次世界大戦の連合国と戦った枢軸国とは、ドイツ、イタリア、日本とある。3国ともファシズム体制の国だと世界から思われている。
日本は、なぜだか今ではその枢軸国にいなかったような顔をしているような気がするのだ。もしかしたら、アメリカに負けてアメリカに同化し過ぎたのだろうか。
ドイツはユダヤ人虐殺を謝りつづける。ファシズムであった過去を消すのではなく、学ぶ姿勢をみせる。数々のホロコーストやナチスの非道を描く映画。ドイツでもハリウッドでも作られても、ドイツが怒ることは無い。
日本ではどうだろうか。あまり、自分たちの負の歴史を描く映画はないような気がする。韓国でも「タクシードライバー」や「1987 ある闘いの真実」などの政治的な商業映画がヒットする。
日本にはそんな映画はないと思っていたところに、「福田村事件」が現れた。
森達也監督は、「なぜ普通の人が人を殺せるのか」という疑問を持ち続けてきたそうだ。著書の『虐殺のスイッチ』も読む。
それにしてもだ、なぜ日本人は中国人や韓国人、アジア人を下に見る風潮があるのだろうか。戦争はアメリカに負けたので、中国に負けたとは思っていないのではないだろうか。いまでは、経済でも教育でも日本は負けていて、自給力、持久力、知力のない日本は近隣諸国と仲良く暮らしていくことが大事なのに、ヘイトに満ちてくるのはどういう訳なのだろうか。
これは国やマスコミが煽っていないだろうか。差別がいけないというガバメント・スピーチが伝わってこない。伝わってくるのは差別感剥き出しの感情だ。
津久井やまゆり園の障がい者殺傷事件の犯人は、政府の意向を実現しようとしたところがある。それは勘違いなのだが、勘違いするような差別的なメッセージが発せられているのではないだろうか。
映画「福田村事件」を観て、これは酷いと思う人もいっぱいいるし、もうデマや噂に惑わされて、虐殺するようなことは起こらないとは思いたいが、最近はよくわからない。
路上でヘイトを叫ぶ人たち。どうしてこうなってしまうのだろう。わたしたちは誰かに操作されていないだろうか。
下々同士で争い殺しあい、上の人たちは高みの見物。だれかが儲けるための仕業でしかない。欲のため。ヘイトデモをする人たちも使い捨ての駒でしかない。いろいろなものを仕方ないと見過ごすうちに、変な沼にはまってしまい、ディストピアが待っていないように、みんなで立ち上がらないといけない時なのではないだろうか。