胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

『愛を描いたひと イ・ジュンソプと山本方子の百年』大貫智子

 

本屋で見つけた本。なぜか気になり手に取る。パラパラと読むとイ・ジュンソプは韓国では国民的な画家で、妻は日本女性だとある。口絵のカラー写真のイ・ジュンソプの絵は好みである。アジアで初めてニューヨーク近代美術館(MOMA)に所蔵された画家だという。わたしはもちろん知らない。さいきん韓国の文学は人気だけど、画家は知らない。そもそも日本での紹介はあまりないようだ。

 

今週はギックリ腰をして静養をしていたので、この本を読み、関係する動画などを見て過ごした。

 

イ・ジュンソプと山本方子(まさこ)は、駿河台下の文化学院で出会った。1939年のことである。朝鮮は日本の植民地であったけど、イ・ジュンソプ北朝鮮の地主の家に生まれて裕福であった。絵の勉強のために日本に留学した。方子も良い家庭のお嬢さん。クリスチャンの一家だった。イ・ジュンソプと付き合うことは反対されなかったが、「絵描きは食べていけるのか」と心配される。朝鮮にもどったイ・ジュンソプを追って敗戦前に方子は危ない玄界灘を渡って朝鮮へ。東京大空襲もあり、日本もどうなるかわからないと考え親も送り出したのだろう。北朝鮮イ・ジュンソプの実家には食べ物もあり穏やかに暮らしていたが、日本の敗戦とともに情勢が複雑になっていく。

やっと日本から解放され独立した朝鮮に動乱が起こり、なぜ北と南に分かれて戦わないといけなくなったのかということは、わたしはぜんぜん知識がない。満州関係のことは読んだりしていたが、朝鮮の歴史を知らない。

ちょうどNHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」の最新番組が「朝鮮戦争 そして核がばらまかれた」とあったので、オンデマンドでみる。38度線に決まった経緯、中国に力を借りた北が南を圧倒し釜山まで追い詰めた。アメリカの北への爆撃は東京大空襲どころではない被害をもたらしている。それを後方支援したのは日本。

イ・ジュンソプと山本方子と二人の子どもはイ・ジュンソプの母が「中国が攻めてくるから逃げなさい」と言われ、身一つで家族で逃げて釜山に着く。済州島で暮らしもするが食べるものがなく貧困のどん底の生活をする。イ・ジュンソプは根っからの芸術家だから、絵以外で稼げない。絵で稼げる時代ではない。みんな闇屋や物乞いでもして生きるのだけど、裕福な育ちもあってできない。方子と子どもたちを心配して、一度東京の実家に帰らせる。またすぐに会えると思ったのだ。戦時中だって日本と朝鮮は行き来ができた。しかし、国交断絶がつづきイ・ジュンソプの日本行きはうまくいかない。この夫婦が交わした手紙は韓国では本になり、人気画家の悲劇は小説や舞台になっている。済州島にはイ・ジュンソプの記念美術館もある。

 

本を読み終わったあとに、2014年のドキュメンタリー映画「ふたつの祖国、ひとつの愛ーイ・ジュンソプの妻ー」を見る。映画のなかの方子さんは93歳。イ・ジュンソプは39歳で亡くなったので、家族が再び一緒に暮らすことは叶わなかった。国交回復後は方子さんはハングルを習い、なんども韓国を訪れている。ドキュメンタリー映画にはイ・ジュンソプの友人たちも出ているが、老いても日本語が話せる。

山本方子さんは、2022年8月に100歳で亡くなった。

 

 

www.nhk.jp

『愛を描いたひと』の中に、映画「国際市場で会いましょう」が南に逃れる北の人たちが描かれていると書いてあったので、見てみる。北に住む人が南に逃れたのは自分たちの住む場所が攻撃されたからだ。残ることは死ぬことになる。手荷物を持つだけで子どもを抱え逃げる。ウクライナの戦火から逃げる人たちと同じだ。同じ国だったはずなのに北からの難民にると、北から来た難民と差別される。共産主義ではと疑われる。なにが共産主義化わからない庶民もいる。ただ、家族の命を守りたくて逃げた。そのときに、家族と離れ離れになってしまったり、家族を北に置いてきたりして、地続きなのに会えない・イ・ジュンソプも「逃げろ」と言った母は残ったので、その後の消息はわからない。兄も行方が分からなくなっていた。

中国やアメリカの爆撃だけでなく、疑心暗鬼がたかまり虐殺もおきる。済州島四・三事件イ・ジュンソプ一家が済州島に移る前の事件だった。日本は朝鮮戦争の特需で景気が良くなり、マッカーサーは反共を支援させるために戦犯を公職にもどす。いろいろなことが今につながり、朝鮮の混乱も中国の混乱も日本にも責任はあるんだろうと考える。そしてこんなに近くても韓国や北朝鮮の歴史を知らない。遠い昔のことではなく、わたしが生きていた時代も韓国は民主化運動の弾圧で人が死んでいる。近くなのに何も知らないでいいのだろうか、すべては関係しあっている。