胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』

 

藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

 

 近藤史人 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 (講談社文庫)  2006年1月15日

 

 藤田嗣治の名は知っていた。パリに住んでいたというのも何となく知っている。絵も写真で見たことがある。戦争協力をした画家というのは知らなかった。たいていの人が藤田嗣治の切れ端しか知らず、売れっ子だけどたいした画家ではないという烙印をおしていたのではないだろうか。

 この本は、藤田嗣治の偉大さを語るのではなく、彼の絵に対する努力と愛と奉仕を教えてくれる。本物の画家であり、時代に翻弄されたけれど、それが藤田嗣治をつくった。

 それにしても、エコール・ド・パリのど真ん中で活躍した日本人画家がいたというのはたいしたことなのだ。

 ただ、映画『FUZITA』を観てしまったので、本を読んでいるとオダギリジョーの語り口が再生されて困った。藤田嗣治もじっさい穏やかな人だったようだが、イメージが固定してしまう。

 戦争協力をした画家として藤田嗣治が代表して糾弾されたようだが、本にある映画にあった彼の絵が、戦意高揚するような絵に見えない。「アッツ島玉砕」など屍がかさなり、戦争の悲惨さを伝えるだけではないか。ほかの画家でここまで描いた人はいたのだろうか。あの時代みんな戦争協力者だった。戦争画アメリカから戻って来ても公開されないのは、いまの美術界に都合の悪いことが多いからではないかと疑ってしまう。悪者に仕立てた藤田嗣治と自分たちの絵が比べられてしまうとか、日本を代表する画家たちがこぞって戦争協力していたという事実がバレる。人々が忘れていたことを思い出してしまうからではないだろうか。

 表立って戦争協力を拒めば刑務所の中だっただろう。芸術の世界もかなりどろどろしている。藤田嗣治を非難する、それも匿名の座談会や国辱とかいって悪口を言う様子を読むと、いまのTwitterの世界が昔からあることがあることを知り、安心する。

 昔から日本人はこうなのだ。だから自分のやりたいように生きるしかないとね。

 藤田嗣治の遺稿のなかに下記の言葉が記されている。

「私と言うものはデリケートな気性から諍いを嫌い、人中に入りてその程度のレベルの人になりたくない。人と話すよりも、人の話を聞いて独りで問答している方が私は好きだ。

 今までそれ故どれだけ損をしたか、何故その場で口を開いてその真偽を弁駁しないか、やっつけるときは何故手を叩かぬか、とは始終私より二まわりも年若の女房の願いだが、そんな連中と争いあっても、例えその場で言い負かしても、陰で何の反響もなく平然としてるにすぎないと思って、馬鹿みたいな顔をして馬鹿と思わせて居た方が面白いと思っている私だ。

 人は勝手に理屈をつけて世間の口はうるさいが、一人の口から漏れて何千の人の耳に伝わってそれが広まっても、わたしは始終、0は何万集っても0に過ぎず、一の方が強いと言っている。」(P382)