胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

今日は掃除日和ではない

 土曜日に大鍋にカレーを作って、「日曜日、母はレポート書きに集中するから、勝手にごはんを食べていて」と宣言して、昨日一日机に向う。
 だが、集中も続かずにインターネットに逃げ込んだら、内田樹氏のブログで掃除について書かれたものにぶちあたり、「そうなんだよ」と膝をたたく。 「なぜ、こうもほこりはたまるのか」「毎日10分、15分、本を置いて掃除や草とりをすればきれいに暮らせるのではないか」などと考えていた。考えている暇があったら掃除しろと言われそうだが、料理はしても掃除が後回しになる。たまに耐えられなくなって掃除する。
 それでも、掃除の使命を気にかけるのは私だけなので、ふと気がつけば、居間はみんなが読んだ本や漫画やゲームや新聞が床にも置かれ足の踏み場もなく、「全部自分の部屋に片付けなさい!」と怒鳴る結果となる。毎回同じことの繰り返し。自分の部屋を見ると人のことは叱れないのだが、清潔に暮らすためにとりあえず、少しは踏ん張っている。


 それでは、以下は内田樹氏の文書から引用させていただきました。

「2時間ほど掃除をしていたら、汗びっしょりになる。
やれやれ、だいぶ片付いた。
2時間で済むような掃除なら、いつでもできるじゃないかと言う人がいるかも知れない。
毎日3時間も4時間も酒飲んで、バカ映画みてごろごろしているんだから、その時間にやればいいじゃないか、と。
そういうものではないのだよ。
それは家事というものを本気でしたことのない人の言葉である。
家事というのは、明窓浄机に端座し、懸腕直筆、穂先を純白の紙に落とすときのような「明鏡止水」「安定打座」の心持ちにないとなかなかできないものなのである。
お昼から出かける用事がある、というような「ケツカッチン」状態では、仮に時間的余裕がそれまでに2、3時間あっても、「家事の心」に入り込むことができないのである。
というのは家事というのは「無限」だからである。
絶えず増大してゆくエントロピーに向かって、非力な抵抗を試み、わずかばかりの空隙に一時的な「秩序」を生成する(それも、一定時間が経過すれば必ず崩れる)のが家事である。
どれほど掃除しても床にはすぐに埃がたまり、ガラスは曇り、お茶碗には茶渋が付き、排水溝には髪の毛がこびりつき、新聞紙は積み重なり、汚れ物は増え続ける。
家事労働というのは「シシュフォスの神話」みたいなものなのである。」
内田樹の研究室「お掃除するシシュフォス」より
http://blog.tatsuru.com/2009/06/07_1532.php



 それからもうひとつ。内田氏が村上春樹論を書かれた中の文書です。
「掃除については、これまでブログに何度も書いたが、これは「宇宙を浸食してくる銀河帝国軍」に対して、勝ち目のない抵抗戦を細々と局地的に展開している共和国軍のゲリラ戦のようなものである。
この戦いの帰趨は始めから決まっている。
部屋は必ず汚れる。本は机から崩れ落ち、窓にはよごれがこびりつき、床にはゴミが散乱する。局地的に秩序が回復することはあっても、それはほんの暫定的なものに過ぎない。
無秩序は必ず拡大し、最終的にはすべてが無秩序のうちに崩壊することは確実なのである。
けれども、それまでの間、私たちは局地的・一時的な秩序を手の届く範囲に打ち立てようとする。
掃除をしているときに、私たちは宇宙的なエントロピーの拡大にただ一人抵抗している「秩序の守護者」なのである。
けれども、この敗北することがわかっている戦いを日々戦う人なしには、私たちの生活は成り立たない」
 内田樹の研究室「ご飯を作り、お掃除をすることの英雄性」より
http://blog.tatsuru.com/2009/06/24_0907.php


家事労働は「シシュフォスの神話」のようだというのは、まさしくそうなのだ。掃除だけではない。大鍋に作ったはずのカレーも2日めにはなくなっているし、冷蔵庫はすぐに空になる。ティシュはなくなり、歯磨き粉がきれる。毎日毎日の料理に買い物。作っても作っても、買っても買ってもなくなるよ。毎日毎日、何かと戦っているように家事をしている。