胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

「普通がいい」という病

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

 最近、読書をきちんとしていません。
 この本は夫に勧められて、拾い読みしていました。

 仕事の上でも役に立ちます。この本に登場するような病をもった方々とのお付き合いが多い仕事なもので。
 「普通」「一般」という言葉はよく出てきます。
 「一般」とは何? 「普通」とは?
 「普通の人なんて見たことない」
 「普通の人がいたら、面白くないだろうね」
 そう思うのですが。
 言葉で伝わるのなら苦労しない。
 どう伝えていくかです。
 最近は、対話を繰り返していくしかないと思っています。



 いっぱい付箋を貼りましたが、
 著者の「自信」という言葉への解釈に感心しました。

 第3講の最後で、「心」=「身体」を自然や宇宙とつながったものと捉えましたが、私はそれを「信じる」ことが「自信」なのではないかと考えます。ですから、「自信」の「自」を、「自然」の「自」と考えてみてもよいのではないかとも思うのです。「自分」という言葉では、どうにも有限な一個人のイメージが付きまといます。そういう限界のあるものを「信じる」ということ自体、土台無理があるともいえるわけで、そこが抜けて自然とつながっているような無限に開かれた自分ならば、「信じる」こともすんなり出来るのではないでしょうか。現に、アイデアが湧いたり、インスピレーションが訪れたり、火事場の馬鹿力が出たりするのは、そういう開かれた自分があるからではないでしょうか。

そうですね、こんないい加減な自分なんて信じられないです。でも、どこか根拠のない自信が人にはあります。それは、自然に生かされているという感じと似ている。
「何とかなる」「私はできる」というのは、わたくし個人を信じるのではなく、私がやってきたことの先に開かれるものがあるという感じです。

 病気の方は、意識がいつも自分自分にといきます。外には広がりません。

 子ども時代から自然の中の体験や冒険は大事だと思います。20代でもいいでしょう。
 自然の中で生かされている感覚、自分の足で山の頂に立った感覚、そういうものを持っていると、根拠なき自信も生まれやすいような気がします。