胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

介護人材

 失業している人たちに対して介護への雇用促進へというニュースを目にします。2級ヘルパーの講座費の補助金を出すとか、事業所もいい人材を確保できると喜んでいるとか、「必要とされる大事な仕事」などという言葉とともに新聞には載ります。そんな記事を読むと、胸の中がもやもやしていました。
 下記の記事は、わたしのもやもや感を少し代弁してくれています。

「介護の現場は雇用の切り札か」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090310/137810/

「やりがいのある大事な仕事」と言いながら、介護職の給料を上げる気もなく、外国人や失業者を対象として、「安くても仕事があるだけましだろう」、「誰でもできる仕事」という考えが相変わらずあることが見えてしまうから気持ちが悪いのかもしれません。
 介護報酬が3パーセント上がってもヘルパーの給料は上がりません。
 『現代思想』2月号で「労働としてのケア」で上野千鶴子氏と立岩真也氏が対談して、時給はこれぐらいにすれば人が集まるだろうと試算したりしていますが、それぐらいのことは私にもわかります。もっと政策を動かせるような話が出てこないのかと思ったりもします。やはり現場で働いている人たちが声をあげていかないといけないかとも思います。ところが不安定な身分で改善要求をしても「嫌だったらやめてください。安く働いてくれる人はいくらでもいるから」(本当はなかなかいないのですが。)と言われかねませんね。人間の生活相手の仕事ですからストもできませんし、介護の仕事がどうなっていくのか目が離せません。

 最近、亡くなった小沢勲氏の本を読んでいました。『痴呆を生きるということ』(岩波新書)、『物語としての痴呆ケア』(三輪書店)などですが、小澤氏がおこなった施設での取り組みを読めば、介護も日々勉強と挑戦だということがよくわかります。
 先日、重度訪問介護従業者の研修にでました。私は大学の学生さんたちと1万3千円の参加費は自費で参加したのですが、他にも自費で参加した人たちもいます。事業所からお金が出てきていた人もいます。自費でも勉強したいという人もいるし、事業所もどんどん研修へ職員を行かせ勉強させます。そうやって日々勉強の仕事なのです。
 (その研修で一緒だった人と一昨日本屋でばったり会いました。「研修のあの講義はすごく参考になった。でも、あの講義は私たちには基本でしかなく、もう少し違う技術を見せてもらいたかった」と感想を言っていました。プロの仕事人の目は厳しいことと貪欲な知識欲に感心したのです。)
 介護といえば、排泄や食事、風呂の世話などと、国は思っているのではないでしょうか。介護の現場で生き生き働いている人は、自分でまたは組織でモチベーションをあげるために日々研鑽しています。そうしないと、すぐにルーチン・ワークに陥ってしまう仕事でもあるからなのです。誰でもできる仕事であるようで、なかなか誰でもできる仕事ではないというのが介護の仕事なのかもしれません。
 そして収入です。介護の仕事をしはじめのとき、給料の低さも我慢してしまします。仕事を覚えている段階だから仕方ないと思うし、いろいろなことを覚えて楽しい時期でもあります。でも、自分たちにも生活があります。仕事の面白さだけでは続きませんし、長く仕事をすれば困難な事例にもぶつかります。だんだん給料の少なさと昇給のないことが不満になります。
 介護職に携る人も生活を持っています。大学生の子どもに仕送りするため、母子家庭で家族を養うため、海外から研修に来る外国人の子たちも仕事を覚えた上で自活して、家族を助けたいという思いがあります。専業主婦が空いた時間を活用しているという登録ヘルパーの考え方は捨てて欲しいです。誰も優しい気持ちだけでは働けません。生活を守り、プライドを守らないといけないからです。だから、辞めます。2009/03/14