胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

尊厳死ではなく

 尊厳死、最近知り合いが亡くなって考えていました。高齢者はどう死んでいったらいいのか。それは個人の好みに合わせて好き好きでいいのですが、どうも本人の意思に関係ないところで終末期を迎える人も多いかと思います。
 後期高齢者医療制度の中に「終末期相談支援料」に対して診療報酬が支払われる制度がありましたが、凍結になったようです。その是非はともかく、まだきちんと議論もされておらず、どういうものを指して延命治療というのか、きちんとした説明もないまま、「尊厳死」と言われても一般の高齢者にも判断ができない人が多いのです。
 呼吸器をつけている人を観て、一般の人は「ああなるくらいなら死んだ方がまし」などと思う人も多くいると思います。でも、呼吸器をつけている障害のある人ともう寿命がきたかと思われる高齢者と一緒にして考えてしまっているところがあるのではないでしょうか。65歳以上の障害者は後期高齢者医療制度に入るというのも、この制度を作った人たちの本当の考えは何なのだろうとうそ寒い気がしてくるのです。そして、「ああなるなら死んだ方がまし」と考えていた人も、実際そうなった時に「死にたい」と思うかどうかわかりません。
 もし、私が80歳も過ぎて助からない状態なら呼吸器なんていいと思いましたが、中島みちの『「尊厳死」に尊厳はあるのか』を読むと、「呼吸器を外すことがいかに残酷な行為であるか。人間息ができないことほど苦しい状況はない。水におぼれる状態を想像してほしい」という浅野井院長の言葉というのがありました。それが本当なら、呼吸器をつけてしまったらはずすのは困ります。それに苦しかったら、呼吸器をつけて欲しいと思うかもしれません。潔くしたい気持ちもありますが、私は弱虫なので、痛いのや苦しいのは嫌です。家族にも苦しい思いはさせたくありません。延命治療をしないというのはどういう状態になるのか教えてもらい納得しなければいけません。栄養を送らなくなれば、餓死の苦しみがあるのでしょうか。意識がないから、深い認知症だから何もわからないというのは本当なのでしょうか。
 胃ろうすれば長く生きられるのはうれしいのですが、安定すれば退院を迫られ、在宅で看取るシステムもない地方では、知らない土地の病院へ転院となり、歳老いた妻は見舞いにも行けず、知らない土地でひとり亡くなる。それは淋しいような気がします。だから、延命はしないという書類を書けばいいのだと言われるかもしれませんが、高齢者を自分の住んでいる土地で静かに看取るシステムを考えるのが面倒なので、「尊厳死」なのかと考えてもしまいます。「尊厳死」という言葉に拒否反応を私が起こすようになったのも、今までの数々の国の医療政策への不信からです。どうしても財政面の話ばかりちらつきます。
  日本でも良心的医者や病院がたまたま近くにあって、出会えれば、いい最後が迎えられるのでしょうが、出会えなかったとき(情報を集められない人も多くいるし、お金がないこともある。) の格差は大きいものだと思うこの頃の体験でした。2009/03/10