胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

アレクセイの泉


 本橋誠一監督の『アレクセイの泉』を観た。舞台となるのは、チェルノブイリの爆発事故で被災した小さな村ブジシチェ。ほとんどの人が村から避難したが、55人のお年寄りとアレクセイという青年が村に残り、場事故前と同じように生活している。でも、同じではない。長年受け継がれてきた生活がもうすぐ終わることを知っている。
 まわりの被爆量が高いのに、泉だけは放射能の検出がない。この泉があるから、村人は村を離れない。
 映画は、放射能のことにはほとんど触れない。触れないが、大切なものを奪い取られたことがしみじみ染みてくる。それは、当たり前の生活。外の人から見たら、いずれ高齢化と若者の村離れにより、日本の農村のように過疎化していったかもしれない。もっと便利な生活をすすめるだろう。でも、本当の贅沢とはなんだろう。放射能がなければ、アレクセイだけではなく、何人かの若者が残り、村おこしをしたかもしれない。いきなり生活が断ち切られたのは、福島も同じことなのだが、私たちはその痛みをきちんと見ることができない。