胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』

 

『単独者のあくび 尾形亀之助』 吉田美和子著 (木犀社・2010年)

 

この本は知り合いのTwitterなどに書かれていて目にはしていたのに読んでいなかった。

ページ数多くてお値段も高い。ようやくどっこいしょと読みはじめたらやめられなくなった。

最初の場面は、戦後、銀座のバーで草野心平辻まことが出会うところからはじまる。

草野心平尾形亀之助の『障子のある家』をそのままの姿で復刻したいと思っているが、その詩集は限定版で友人たちに配られたものである。焼け野原となり死んだ人も多い中で、さがすのが困難だったのだろう。それを辻まことに話す。

 

—それならばボクがもっています

 —なに? 本当か、どこにある

 —いまもっていますよ

 —いまってここにか

 私は「そうです」とポケットからだしてカウンダ―の上に置いた。心平さんは実に妙な顔付きでこれを眺めた。信じられないといった面持ちの一瞬だった。

 

 これは辻まこと尾形亀之助について書いた文章の一部である。辻まことは中国戦線で兵隊をしている間も尾形亀之助の詩集を持ち歩き、日本に帰って来ても詩集をポケットにいれていた。辻まことの伝記にはかならず入っている場面だ。ひさしぶりにこの場面に遭遇して泣いてしまう。わたしの青春が辻まことにあったからだ。

 

 それはともかく、それですっかりひきこまれてあの時代の尾形亀之助とそれをとりまく人々の物語にすっかりはまりこんで読み進めていくことになる。

 

 尾形亀之助は、1900年宮城県大河原町に生まれる。どんでもない資産家の家であった。さいごに家は没落し、亀之助もすこし働きには出るけれど、ほとんど勤め人にも収入のある芸術家にもならなかった。でも、絵を描いたり詩誌をつくったりし、さいごは詩集を出し詩人となるのだが、仲間内で知られる詩人で一般の人がその名を知ることはない。

 1942年、仙台の街の中でたおれて亡くなる。ゆっくりとした餓死自殺だったともいわれる。これから日本の戦況は厳しくなって、挙国一致スローガンのもと、兵隊にもなれない勤労奉仕もできない役立たずの病人の詩人などはますます生きづらくなり、覚めた目で世間を見るのもつらいだろう。戦後のやる気に満ちた文学界にはますます孤独を感じるだろう。よく早死にした文学者を「もっと長生きすれば」と悼む言葉があるけれど、尾形亀之助は長生きしなくてよかったかもしれないと、本を読みながら思ったりする。

 

尾形亀之助宮沢賢治の関係もこの本に書かれている。関係はそれほどないが、尾形亀之助がだした詩誌『月曜』に宮沢賢治の「オツベルと象」や「猫の事務所」を掲載している。尾形亀之助高村光太郎草野心平から親切にされていた。そのつながりで、宮沢賢治のことは知っていたが、会ったことはなかった。

宮澤賢治というと、「雨ニモマケズ」にでてくる。デクノボーというものに、賢治はなりきれなかった。賢治は根が真面目だし、信仰や家族との絆も強いとみれる。

でも、この本を読むと尾形亀之助こそが、徹底したデクノボーでありえたと思う。

 

先月、太田土男先生がとってくれたわたしの俳句「でくの坊なるはむずかし青胡桃」があった。なるべく人の役に立つなどとおもわず、デクノボー的に生きたいと思っても、人間はついつい人の役に立ちたくなるものだ。いい人と思われたくもなる。

この本で、尾形亀之助のデクノボーぶりを見てなんともいえないくらい面白い。尾形亀之助がお金の苦労をしてこなかったためか、お金に執着もない。根が育ちがいいという感じを受ける。デクノボーの王子様、尾形亀之助はなにを考えていたのだろうか、そんなことを思いながら本を閉じた。