胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

吉野せいを読む

 春休みになったら小説を読んでみようと思った。どうしてだか「吉野せい」を読んでみようと思いついたが、本を探さないまま過ぎていった。ところが、息子を連れて市立図書館へ行った時に、新刊コーナーに山下多恵子編・解説の『土に書いた言葉  吉野せいアンソロジー 』(未知谷)が表紙を見せるように置いてあったので、すぐに手に取った。ときどき本は、偶然に必要としているときに出会うことがある。
 吉野せいは『洟をたらした神』は昔読んだことがあった(子どものときかも)が、内容を忘れていた。その生涯も全然知らなかったのに、名前だけは知っているという作家だった。
 山の家で読むための本として持って行き、読んでみて、泣いてしまった。本を読んで声をあげて泣いたのも久しぶりだった。すぐにその気になってしまう性質なので、私も開拓農民になったつもりで、山の家の敷地の熊笹を刈り、冬の間落ちた枝を拾い、枝を切り、裏山に入りと猛烈に働いた。情けないことに次の日は腕が上がらなくなった。
 吉野せいのように強い一本の真のある人間になりたい。
 吉野せいの随筆の中に、多喜二が卒業論文で取り上げたクロポトキンの『パンの征服』を読んで感銘を受けた話がでてきた。幸徳秋水が英訳から訳した本は発禁本になっていて、多喜二は読めなかったようだが、吉野せいは発禁本を読んでいた。
 小林多喜二1903年生まれ、吉野せいは1899年生まれなので4歳の違いである。ふたりは、あの時代の小説家を目指すインテリ層の若者であった。しかし、女と男の生き方の違いが出るふたりだ。
 それと草野心平。吉野夫妻と交流のあった草野心平。せいに書き続けることをすすめた草野心平。私の知っている草野心平は、辻まことの文書に出てくる居酒屋「火の車」のおやじさんと詩人としての草野心平だ。でも先日、宮澤賢治記念館のイーハトーブ館で開かれていた高村光太郎展で、草野心平高村光太郎と一緒に写真に写っていた。草野心平宮澤賢治をいち早く認めた人らしい。ずいぶん交流関係の広い人で、人の見る目のあった人らしい。私は草野心平の蛙の詩ぐらいしか読んでいなかった。
 5年ぐらい前に、いわき市に住む夫の友人の家に遊びに行ったとき、双葉郡川内村にある長福寺の辻まことの墓へ行ったことがある。長福寺は草野心平の縁で辻まことが気に入った場所だ。川内村に行く途中草野心平の記念館、生家もあったが、子ども達も連れていたので立ち寄らなかった。そうして吉野せいが育ち青春時代をすごしたのも、いわきに近い海沿いの小名浜で、開拓部落は草野心平の生家があるほうである。そのうち、もう一度いわき周辺も旅してみたい。
 
 吉野せいを読んだり、草野心平の詩を読んだりしたら、なんだか俳句が作りたくなった。そんなところへ、去年の新人賞には落ちたけれど候補にあがっていたので、去年の作品から10句選んで送るようにとの手紙が来た。掲載してくれるらしい。俳句やめたと言っているのに、推してくれた先生方がいて、師匠も俳誌を寄贈で送ってくださる。観念して俳句を再開することにした。俳人方とのお付き合いはできないけれど、一人作ることぐらいの時間は作らなければ。吉野せいも過酷な労働の中で「勉強しなくては」と朝の時間に机に向かった。時間がないと言い訳しないで、また書いてみようかな。忙しくなって投げ出す気もしないではないが・・・。