胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

ハンナ・アーレント


 映画「ハンナ・アーレント」を観た。前に大学の図書館で気になっていたけれど、私には難しくてきちんと読んでいなかった。
 ハンナ・アーレントイスラエルでのアイヒマン裁判を傍聴して書いたレポートの核心は、「悪の凡庸さ」。アイヒマンは、殺人鬼でも人格破壊された者でもなく、ただの臆病な小役人にすぎなかったことに、ハンナは、衝撃を受け、それをそのままレポートする。
下記は、映画のサイトから引用した「悪の凡庸さ」の説明。

アーレントアイヒマン裁判のレポートで導入した概念。上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう事態を指している。

 日本に当てはめてもよくわかる概念である。日本も先の戦争で国民がこの状態に陥った。家族を愛する人のいい人が、上の命令に思考不能になって従う。それは、家族を守るため、収入を維持するため、身分を守るため、仲間外れをさけるため、はじめは良心の呵責を感じても、だんだん慣れてくる。そうして、率先して殺人に手を貸すことにもなる。軍部だけではなく、庶民だって同じように生きた。そして、現代にもいつの間にかその風潮が蔓延している。自分だけ生き残れば、あとはかまわない。
 ハンナ・アーレントは、同胞のユダヤ社会にもその「悪の凡庸さ」があると言ってしまったから、大事な友人たちに絶縁される。

 ハンナ・アーレントは、「思考しなさい」と学生たちに話す。「悪の凡庸さ」から逃れるためには、自分の頭で考え勇気を持つことだ。最後のスピーチは感動的だ。
 しかし、その思考するためには教育が必要だ。まれに一人で思考できる人間も出てくるが、大部分は全体主義の教育を受けた中で、人間として何が正しいか思考する習慣はすでにない。勇気とは、敵と戦い殺すことだと思わされるかもしれない。思考を教える教師もいない。
 日本の教育は、自分の頭で思考させないようなしくみになっているのかもしれない。
 そういうわけで、これからの日本で、「悪の凡庸さ」に陥らないためには、本当に勇気と自分を信じる力がないと難しいと感じた。