胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

 最相葉月の「セラピスト」を読みました。そのことは、「胡桃の木の下で」に書きますが、夢の話が出てきます。睡眠中に見る夢です。
 山中康裕が河合隼雄に教育分析を受ける時、「見た夢を持って来なさい」と言われます。夢なんて簡単に見られるかと思いますが、その夜から夢を見るようになります。河合から「まだ、見方が甘い。もっと、しっかり見てきてもらわんと」と言われ、戸惑いますが、しっかり夢の続きが出てきて、山中教授は驚きます。
 ここ何年か、私は夢を見ないのです。若い頃は良く見ました。色付きの夢もありました。何回も地下鉄から長いエレベーターで地上に出る夢を見たら、ある日そこに仕事で行き、ここが夢に出てきたところだと思いました。殺し合いが起こり、自分はバスタブの中に隠れ、見つからないようにと祈る恐い夢もありました。
 でも、今は見ない。いえいえ、時々、寝ている私が叫んでいると夫に言われたので、夢は見ているけれど忘れているのかも。叫んでいたのは、病院勤めの頃なので、いろいろあったのでしょう。夢でストレス発散し、それを覚えていないように防衛機制が働いていたのかしら。
 そうそう、ときどき朝方に同じような夢を見ます。トイレに行きたいのに、目の前にあるトイレはすごく汚い。汚さにもいろいろあります。ジャングルの中でうようよ虫がいたり、単に古い民家でおどろおどろしかったり、場面は変わります。でも、用をたさないといけません。覚悟して便器や穴をまたぐのです。その時に、目が覚めて、トイレに駆け込みます。子どもだったらおねしょをしているのでしょう。
 こんな現実的な夢ばかりで、それこそ夢もない。ファンタジーもない。夢を見ないのは、イメージ力が貧困になっているという話もあります。
 ソーシャルワーカーという仕事をしてから、私の中のイメージ力が無くなっていったような気がします。簡単な句集を作ろうと思っても、取り上げたいのは昔むかしの俳句。病院勤めをしていた時の句なんて恥ずかしくて取り上げられない。
 たんに時間がなかっただけではなく、人の支援にかまけて自分を置き去りにしていたような気もします。現実の貧困問題にかかわっているうちに、自分が貧困になっていたという訳で、これは自分に目をそらしていた私の責任です。
 そういうわけで、今年はあまり仕事をしないで、イメージ力を鍛えたいと思っています。
 そこで、私も夢を見ようと自分に言いきかせて昨夜は布団に入りました。念のためにメモ用紙を枕元に置きます。
 そうしたら、見ました、夢。
 夢の中で、丘を眺めていて(山ではなく、丸い丘)、あそこに登れば、向こうの海が見られる、と思っているのです。それしか、覚えていません。その後、歩き出したのかはわかりません。
 でも、夢を覚えていることができました。PCに「夢日記」というフォルダを作って、夢を見たら、書いておくことにします。
私も分析受けてみたいけれど、岩手には受けたい人はいません。いつか、この人という人がいたら、お願いしたいと思っています