胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

金子ふみ子著『何が私をこうさせたのか』

 

何が私をこうさせたか―獄中手記

何が私をこうさせたか―獄中手記

 

 

ずいぶん前に買っておいた本だけれど読めなかった。最初っからつらそうな内容がわかったから。でも先日、NHKラジオの金曜日「すっぴん」で高橋源一郎が紹介していたので、本棚をさがして読んでみる。やっぱりつらい。生みの親たちの勝手さにも腹が立つが、韓国での親戚の家からのいじめには暗澹な気持ちになる。ふみ子も「こんなことほんとうにあるのか」と思われるかもしれないから、もっとひどいことは書いていないと書く。でも、こういう人を利用し詐取する人はいると思う。お金のない日本人を韓国人を、アジア人をだまして連れてきて奴隷のように働かせる。だって現代にもあるじゃない。

著者が過酷な生活の中でも知識欲、自由、自然の素晴らしさを知る気高い精神を保ち続けたのが驚きだ。意志の弱い見栄はりな両親のもとで、なぜこういう少女ができあがったのか、環境にもまれたせいではなく、トンビがタカを産むことがあるのだ。

 

ふみ子、死ななければ戦後に活躍できたかもしれない。なぜ自死したのだろう。ほんとうに自死だったのだろうか。

 

 

P321

 初代さんは、そうした人達の運動を蔑んだ。少なくとも冷ややかな眼でそれを眺めた。

「私は人間の社会にこれといった理想をこれといった理想を持つことが出来ない。だから、わたしとしてはまず、気の合った仲間ばかり集って、気の合った生活をする。それが一ばん可能性のある、そして一ばん意義のある生き方だと思う」と、初代さんは言った。

 それを私達の仲間の一人は、逃避だと言った。けれど、私はそうは考えなかった。私も初代さんと同じように、既にこうなった社会を、万人の幸福となる社会に変革するころは不可能だと考えた。私も同じように、別に同じように、別にこれという理想をもつことが出来なかった。けれど私には一つ、初代さんと違った考えがあった。それは、たとい私達が社会に理想を持てないとしても、私達自身には私達自身の真の仕事というものがあり得ることだ。それが成就しようとしまいと私達の関したことではない。私達はただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をする事が、私たちの自身の真の生活である。

 わたしはそれをしたい。それをする事によって、私達の生活が今直ちに私達と一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない。」

 

ながい金子ふみ子の過酷な生活を読んだ後で、このふみ子の考えはわたしと同じだと思った。一生かけてやる自分の仕事が必要。いろいろこの世の中の醜さを嘆いてもはじまらない。わたしに変えることはできない。でも知識の刃は研ぎつづけ、どんな時代も生き抜く力はもっていたいと思う。遠い理想ばかり追うと悲しくなる。気の合う仲間はいいだろうけど、なかなかいないものなのだ。自分の頭と身体をつかって自分の仕事をしたい。

金子ふみ子の映画「金子文子と朴烈」も上映中とのことでみてみたいな。

http://www.fumiko-yeol.com/

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Facebookを覗くと私の知り合いたちがあちこちでイベントを開いている。外は晴天。素敵な6月。わたしはどこにもでかけない。でかけるとお金がかかるから。イベントで知り合いに会えば、その人のつくったお菓子やパンを買うことになる。イベントは無料ではない。お金を使いにいくところ。今のところ美味しいパンより本が欲しいので、自分の時間がほしいので、ひきこもる日曜日。