胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

國分功一郎著『原子力時代における哲学』

 

原子力時代における哲学 (犀の教室)

原子力時代における哲学 (犀の教室)

 

 『原子力時代における哲学』 國分功一郎著 2019年 (晶文社

 

講義録を本にしたものなので、読みやすくてわたしにもわかる。

核戦争より、水素爆弾より怖いものは原子力の平和利用だと見抜いたハイデッカーの言葉をたどりながら、なぜ原子力にひとは魅了されてしまうのかを論じる。脱原発をいうだけで、左翼の活動家のような扱いになり、原発があんなに危険なものなのに、継続しようとする人たち。利権の問題だと思っていたけど、利権だけではなく、日本人の「人間は自立して生きなくてはいけない」という、出来もしない事への束縛のような気もしてくる。この日本人の信仰はどこから生まれてきたのだろう。

いろいろ社会のことを思う私なんだけれど、母親運動とか9条の会へ行ってもなじめない。みんな頑張っていてえらいと思う。こういう方たちがいなくてはいけない。でも、自分は正しいことを大きな声で言えないで、ひとりで憤るだけ。みんなカリスマ性があって頑張れるわけでもない。ほそぼそ考えていくことしかできない。

なにより団体がだめなのだ。そういうわけで、正社員も今年で辞めて、週3日のパートになる。給料は3分の1。でも組織に属して、間違っていると思うことをやるのが嫌、職場が家族のようなのも嫌、オタクする時間がないのも嫌、というわがままおばさん。貯金も年金もないのにどうするのだと言われるかもしれないが、どうにか細々と消費を控えて生きて行こう。

必要なのは学問だと思った。自分の考えることを書けるような学問がないんだな。

 思惟、来るべき土着性、開いて近づくこと、意志ってけっこう悪者、待つこと。面白い考えが吹き込まれる。吹き込まれておしまいではなく、ここから考えていくのが読者の仕事。何回か読まないといけない本である。ナチスに加担した哲学者であるハイデッカーだが、良いこと言っているんじゃないと思った。でも、彼の言葉は現代になって、ようやく注目され理解される。彼の書いたことがわたしたちには現実だから。詩人や哲学者は予見者でもあるとなにかで読んだことがあるけれど、そうなのかもしれない。

 

本書に出てきたハイデッカーの文章から

p79 1955年に行われた「放下」という講演より

「決定的な問いはいまや次のような問いである。すなわち、我々は、この考ることができないほどの大きな原子力を、いったいいかなる仕方で制御し、操縦できるのか、そしてまたいかなる仕方で、この途方もないエネルギーが—戦争行為によらずとも―突如としてどこかある個所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか」

P84

「たとえ原子力エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人になったことになるでしょうか? 断じてそうではありません。その管理が不可欠なことがとりもなおさず、〈立場をとらせる力〉を証明しているのであり、この力の承認を表明しているとともに、この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに暴露しているのです」

 P170

「今日益々増大していきつつある無思慮ということは、現代人の最も内奥の骨髄に食い入っているある出来事に基づいている。すなわち、現代人は思惟から逃走の最中にある。」

P171

省察する熟慮は、あたかも農夫のごとく、蒔かれた種子が生い立ち成熟するか否かを、見守りつつ待つことができなければならない。」

P188

「ここでは技術を手段として、人間の生命と本質とに向かって或る攻撃が準備されている。その攻撃に比べれば、水素爆弾の爆発などほとんど物の数ではない。なぜならば、水素爆弾が爆発することなく、人間の生命が地上に維持される時、まさにその時にこそ、原子力時代とともに世界の或る不気味な変動が立ち現れてくるからだ。」

P190

「しかし、本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になるということではない。それより遙かに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも用意を整えていないということであり、我々が省察し思惟しつつ、この時代において本当に台頭してきている事態と、その事態に相応しい仕方で対決するに至るということを、未だに能く為し得ていないということである。いかなる個人も、いかなる人間集団も、極めて有力な政治家たちや研究者たちや技術者たちをメンバーとするいかなる委員会も、経済界や工業界の指導的人物のいかなる会議も、原子力時代の歴史的進行にブレーキを掛けたり、その進行を意のままに操ったりすることはできない。単に人間的であるに過ぎない組織は、いかなる組織でも、時代に対する支配を簒奪することはできない。」

P192

「それでは、原子力時代の人間は、技術の制し難き圧倒的力へと、全く無防備に途方に暮れて引き渡されているのだろうか? もし現代人が単に計算するだけの思惟に対して、省察する思惟を、基準となる働きとして働かすことを断念しているとすれば確かにそうなるだろう。」

P193

「たとえ古い土着性が失われていこうとも、人間に或る新しい根底と地盤とが、すなわち、そこから人間の本質と彼のすべての仕事や作品とが、或る新しい仕方で、しかも原子力時代のうちにあってさえも生い立つことができる根底と地盤が返し贈られることは不可能であろうか?」

P194

「来るべき土着性のために根底となり地盤となるものは、いったいいかなるものであろうか? 我々がこのように問うことによって求めているものは、たぶん、極めて身近にあるだろう。我々がそれをあまりに易々と見過ごしてしまうほど、それほど身近に。なぜなら、身近なものに至る道こそ、我々人間にとってはいつでも最も遠い道であり、そのため最も遠い道であり、そのため最も困難な道であるからだ。この道は、気遣いつつ思いを潜める熟慮の道。」

 

はー疲れた。

P193の「たとえ古い土着性が失われていこうとも、人間に或る新しい根底と地盤とが、すなわち、そこから人間の本質と彼のすべての仕事や作品とが、或る新しい仕方で、しかも原子力時代のうちにあってさえも生い立つことができる根底と地盤が返し贈られることは不可能であろうか?」には、私たち次第では新しい世界をつくる可能性もあるかもしれないという少しの希望をみせてくれる。