胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

中井久夫『戦争と平和 ある観察』

 

「100分de名著」の中井久男特集の最後に「戦争と平和 ある観察」が取り上げられた。前回のブログのつづきとなるが、指南役の精神科医斎藤環が「このエッセイで特に重要だと感じる中井の発想のひとつ」という「人は平和より安全保障感を求める」は、なるほどそういうものだと思わせる。

 

わたしたちは平和より自分や家族の安全を求める。そのために長いものに巻かれ、権力に従い、弱いものをいじめて自分の安全な地位を守ろうとする。

 

昔むかし、わたしが政治の話などをすると、母に「そんなことを言っていると、子どもたちの就職に影響するから気をつけるように」と言われた。子どもたちが高校生の頃だったか、いまほど世の中は戦前の様相はしていなかったのに、そう言うのは、お上に立てつくとろくなことがないという考えが身に染みているのだろうか。しかし、母はその前は土井たか子さんを応援して、組合活動もしていたのだ。年を取るごとになぜか不安になり生長の家というところに出入りし、保守的になっていった。そこには孤独があり、私の責任もあるのかもしれないけれど、母の願いは自分の健康(それは神経症のように健康健康と躍起になる。テレビでいいというものを食べ、情報に流される。主体性がないように見える)と家族の無事と経済的安定だけになってきた。母だけではない。そんな人が増えたように感じる。

もちろんそんな高齢者ばかりではないが、戦争の体験でリベラルになっていく人と、世界が不安定になると、経済的に自分は生き残ろうとする人にわかれていくかもしれない。持たない人は守る物もないので言いたいことを言えるが、たくさん持つ者は守るために口をつぐむしかない。

 

人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感 security feeling 」である。人間は老病死を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものは存在しないからである。

「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。

〈「100分de名著」の中井スペシャル P115より〉

 

戦争こそは、庶民の安全を脅かすものだし、食べ物がなくなるかもしれないし、貯金が封鎖され、我慢を強いられる。それでも、どこかで自分は大丈夫と思っているのかもしれない。わたしも思う。田舎に住んでいれば、水と薪と畑があって生き残れるんじゃないかと。幻想でしかないけど、みんな自分だけは安全だと思いたがる。

お偉いさんと知り合いだから便宜を図ってくれる。そういうコネがある地位にいれば安心だ。ますます権力に寄って行ってしまう。コネとお友達の世界はずーとあったのだけど、先の政権から露骨になってきた。地方もコネの世界を隠さなくなるかもしれない。

 

昨日、河瀨直美の「東京オリンピック sideA」を夫とみた。「お金が入り、いい生活してしまうと後戻りできなくて、それを守らなくちゃいけないんだね。自分もそうなったら、権力におもねるかな。そうなるかもしれない」などと話していた。貯金も財産もない老夫婦のつぶやきなど、世の中は屁の河童だ。それでも、これでいいのかと思うことが多い。多くの人を不幸にすることは確実な戦争をやらないでほしいと思う。偉い人は生き残る。あなたは安全ではない。そして格差による妬みは生まれ、分断もはじまっている。

 

話は変わるけど、

夏にラジオをつけると、ニュースで何回も脱水症予防の警告が流される。「水を飲め」「冷房をつけろ」。わたしの知っている高齢者も嫌と言うほど気をつけ、子どもからは「暑い中外に出ないで」と言われる。脱水症にならないようにしたいが、国をあげての警告に脱水症になれば自己管理ができていないと非難されそうで、高齢者はがんばる。そして安心安全の為には、自分の楽しみも犠牲にする。そんなことを夏になると考えたりした。高齢者だってわかっている。それぞれが判断している。あまりにまわりがうるさすぎなくはないだろうか。裏返せば、「人に迷惑をかけるな」と言うことになるかもしれない。

 

わたしも高齢期にはいっていまだにどう生きるかがわからない。明日死んでも構わないような気もするし、長生きしてこの世がどうなるか見たいような気もする。わたしがなにを考えようと、人々は時代とともに流され最悪なことが起こるかもしれない。そうすれば神はどこにいるのかということになるけど、普通の人が働いて健康で文化的生活ができて、おだやかに死んでいける世の中であってほしいと祈るだけだ。