胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

中井久夫「戦争と平和についての観察」

 

「100分de名著」で中井久夫を取り上げるというので、NHKオンデマンドで見た。彼の精神の病気についての様々な論考は精神科病院で働いていた時に読んでいた。精神科はひどいものだけど、たまに変わった、考える医者がいる。しかし、中井久夫がいても、精神科病院というシステムを変えるのは難しいのだろう。

 

最終回には、中井久夫の「戦争と平和についての観察」を取り上げるようだ。そのあまりにわかりやすい、戦争状態の観察にわたしは本からコピーに取っていた。コピーのもとは、『樹をみつめて』(中井久夫 2006年 みすず書房)。どこかにあったはずと、書類の中をさがす。まったく整理しなくちゃいけない。床にものを置くのは好きではないのに、床に本のタワーが3列でき、書類や切り抜きコピーが積み重なっている。年末に捨てるものは捨てないといけない。捨てるのは好きだけど、ときどきあまりに捨てすぎて後悔することがある。洋服やコートを捨てすぎて、気がついたらこの冬にあまり着るものがない。同じものを着まわしている。しかし、本は捨てるのが難しい。昔買った本が役に立つときがある。読んでなかった積読の中から読みはじめた小説に夢中になることもある。タワーは増えていく。なるべく図書館から借りるようにしているが、良い本だったら自分のために買ってしまうこともある。コピーしたり、文章を写したりしているのが面倒なので、本を持っている方が早いと思ってしまうのだ。

 

戦争と平和についての観察」のコピーが見つかって、きのう読んでみた。

人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。個人はどうして戦争に賛成し参加してしまうのか。残酷な戦闘行為を遂行できるのか。どうして戦争反対は難しく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか。

そういう疑問からヨーロッパのナポレオンからEUができるまでやアジアでの戦争を眺めながら、戦争に共通する様相を中井久夫は考える。

 

戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。

この言葉をわたしもよく思ったけど、中井久夫の受け売りであった。

 

戦争と平和を考察する中井は、「戦争」は進行していく過程で、「平和」はゆらぎを持つ状態であるという。

戦争は有限期間の「過程」である。始まりがあり終わりがある。多くの問題は単純化して勝敗にいかに寄与するかという一点に収斂してゆく。戦争は語りやすく。新聞の紙面一つでも作りやすい。戦争の語りは叙事詩的になりうる。

たしかに戦争は物語になりやすい。小説でも映画でもテレビでも戦争の物語は多く、わたしもそんなのばかりを見たり読んだりしている。平和は物語になりにくい。日常のエッセイや小説で面白いものも多いけど、ドラマチックなものにはならない。

 

 下記に長いが「まず戦争についての観察」から引用する。

 これは日本の戦争だけの話ではない。世界共通する戦争を観察して、だいたい同じことが起こっている。俯瞰してみると、バカバカしくも哀れだが、渦中にいる人間は「われこそは」と愛国心を鼓舞する。

 日本でも愛国心を以て隣人や部下をいじめていた人たちは、軍服を脱いで大義を脱いで、どういう生き方をしたのだろう。昨日まで愛国心や玉砕を説いていた教師が、敗戦すれば民主主義を唱えたという記録文章はよく読みけれど、私たちの信念はただお上に言われれば変わるもの、変えなくちゃいけないもの。それは今も変わらない。まわりに合わせないといけない。

 

 指導者の名が頻繁に登場し、一般にその発言が強調され、性格と力量が美化される。それは宣伝だけでなく、戦争が始まってしまったからには指導者が優秀であってもらわねば民衆はたまらない。民衆の指導者美化を求める眼差しを指導者は浴びてカリスマ性を帯びる。軍服などの制服は、場の雰囲気と相まって平凡な老人にも一見の崇高さを与える。民衆には自己と指導者層との同一視が急速に行われる。単純明快な集団的統一感が優勢となり、選択肢のない社会をつくる。軍服は、青年にはまた格別のいさぎよさ、ひきしまった感じ、澄んだ眼差しを与える。戦争を繰り返すうちに、人類は戦闘者の服装、挙動、行為などの美学を洗練させてきたのであろう。それは成人だけでなく、特に男子青少年をゆうわくすることに力を注いできた。中国との戦争が近づくと幼少年向きの雑誌、マンガ、物語がまっさきに軍国化した。

 

 わかるような気がする。わたしたちはコスプレが好きである。軍服を着て自分も物語の一員になるのだ。ゲームは開始された。

 普通にいい人が残虐に人殺しになれるのは、軍服の中に人格を隠してしまえるからかもしれない。本来持っている残虐性を発揮してしまう。浅はかな自分を軍服は隠してくれる。上からの命令だけではなく、軍服のおかげで普通の人が威張り殺すことが平気になる。悪いことをしているのは自分だけではない。みんなやっている。軍服の集団の中に埋もれていく。気がつくとヒーローになるはずが、手染めの手を見ながら犬死にすることになる。それでも、国のために死んで素晴らしいと祭り上げられ物語は終わる。

あまりにもよくあることで、たくさんの物語になるのが戦争なのだけど、中井に簡潔に言われると、身もふたもなく人間はバカなものだ。

 

 実際には、多くの問題は都合よく棚上げされ、戦後に先送りされるか隠微されて、未来は明るい色を帯びる。兵士という膨大な雇用が生まれて失業問題が解消し、兵器という高価な大量消費物資のために無際限の需要が生まれて経済界が活性化する。

 戦争は、だれかが儲かる。なるべく戦争を長引かせたい。

 ウクライナに武器を供給する国。戦火は遠くでおこり「許されないことだ」といいながらも、懐に金がはいる。そういう当たり前なことは、ネット社会でいくらでも言及されているのに、わたしたちは単純な物語のほうに手を伸ばす。悪の国と正義の国があると。戦争はだんだんに複雑化し、金融市場の活性化のためにあるのかもしれないけど、個人にとって入り込めない世界なので、二元論の世界にとどまってしまうのも仕方ないことなのかもしれないと、静かに絶望するしかないのだろうか。

 

 中井久夫がいても精神科病院の世界は変わらなかった。その大きな理由は、経済だろう。ベットを増やし入院患者が多いほど儲かる。わたしも張り切って、ドクターを説得して退院させていたら、ストップがかかったことが何回もある。ベットコントロールが病院経営には大事なのだ。どうそこを切り崩していけるか、理想だけではかなわない。経済システムを変えないと変わらないだろう。

 

 戦争についても理想や冷静な意見は、嘲笑われる。まずは経済なのだ。国民の人権より経済なのだ。そういわれると、国民は人権を差し出し、安心安全を求める。そのことは中井久夫も「安全保障感」として書いているが、そのことはまた今度。