胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

村松圭一郎『くらしのアナキズム』

 

アナキズム」というと、無政府主義で国を転覆する、というイメージ。政府は無政府主義者たちを怖がって、大杉栄伊藤野枝を虐殺した。共産主義よりわけわからないから、怖がったのだろうか。

資本主義と民主主義は相性が悪い。

国は、暴力的になるものだ。

未開の社会に平等の民主主義があった。日本にもゆるやかな共同体があった。

わたしたちの暮らしの中のアナキズム。自分のことは自分でして、共同体をつくろうというと、国は「自助、共助」でと喜ぶだろうが、そうではなくなるべく資本主義に取り込まれ過ぎないような生き方を模索する。

国は安全な居場所をつくる。失敗しても自殺しなくてもいいような世の中。その中で、みんな好きに生きていく。それに近いことを目指している国もあるだろうが、バリバリの新自由主義のこの国で、民主主義と資本主義とを考え、国にすべてをまかせないで、自分の暮らしをどうつくっていくか考える。

この本は、たくさんの先行研究が読み込まれ、追いつくのに大変だが、アナキズムという言葉に魅かれるものとしては、考えさせられた。

 

宗教というのは、ほんとうは国におさまらない共同体で、アナキズムの要素はないだろうか。むかしは、宗教が弾圧された。現在は国や政治が宗教を利用して、独裁を行うが、宗教人は本来の機能をとりもどし、国を越えて敵を愛し、金と欲より質素な生活人を守る姿を取り戻してほしいと思う。

クリント・イーストウッド監督映画3本

 

クリント・イーストウッドの映画を観てきませんでした。評判は聞いていましたが、昔々みた映画の印象が悪かったせいでしょうか。仕事の打ち合わせで、この映画が良かったという話を聞いて、みてみました。たしかに90歳のクリント・イーストウッドはいいですね。妻役はダイアン・ウィーストでした。ウッディ・アレンの映画に出ていた方ですね。だいぶ老いた姿にびっくり。声は変わらずです。老いていい味が出せる俳優は死ぬまで仕事があっていいな

ボケたクリント・イーストウッドになついてくるチンピラはかわいかった。マフィアのボスの邸宅には半裸の美女たちがお尻プリプリ、胸はボインと歩いているのだけど、ちっともそそられない。セクシーさってあまりもろに出されるとげんなりする。男はいまだにああいうのが好きなのだろうか。

刑務所でのラストは良かった。

 

渡辺謙演じる栗林忠道中将の手紙が紹介された原作をもとにしている映画だが、登場人物はほとんどフィクションである。それにしても全編日本語である。クリント・イーストウッド監督だけど、強力なスタッフたちがいるのだろうな。監督がイメージを言えば作り上げてしまうようなスタッフ陣。負けるとわかっていて戦わなくてはいけなかったのか、と今になっておもう。全員で山に白旗をかかげよと。

 

硫黄島の摺鉢山にかかげた星条旗。1枚の写真が、戦費を集めるためのプロパガンダにつかわれたという話。アメリカ軍の被害もすごかった。本国では戦争の悲惨さがわかっていない。ベトナム戦争と同じ。宣伝活動が嫌だといえば、うえのひとが「沖縄にやるぞ」と言う。死ぬのは庶民。だれかの息子。お偉いさんは生き残り、戦後もうまいことやる。買った国も負けた国も同じだと、クリント・イーストウッドは言っているようだ。それにしてもインディアン差別というのもひどい。もともとの原住民をなんだと思っているんだ。インディアンの兵士役のアダム・ビーチがいちばんいい役だ。

米原万里『噓つきアーニャの真っ赤な真実』

 

『噓つきアーニャの真っ赤な真実』 米原万里著 (角川文庫)

 

先週は忙しかった。調べたいこともあって1泊2日で弘前へ行った。

日帰りでもよかったのだが、調べたら良い感じのホテルが朝食付きで3000円代で泊まれる。東北三県在住者限定プラン。泊まることにした。(そのうえ、4000円分のお食事やお買い物できるクーポンもくれた。青森、弘前応援キャンペーンのようだ。)

1日めは五能線に乗って深浦まで行ってみた。行きは「リゾートしらかみ」に乗り、深浦でおりたが、駅前の通りには何もなかった。いろいろなお店の建物はあるが、何年も前に閉まってしまったようだ。昼なのにパンひとつ買えない。みなさん、どこで買い物をしているのだろうか。車で行く離れた場所に大型スーパーがあるのかな。

目的だった「深浦文学館」は閉館していた。ホームページにはそうは書いていなかったが、冬でコロナ禍で閉めているのだろうか。役場の前で雪かきしている人に、「食べるところか、パンでも買えるところはないだろうか」と聞いて、食堂を教えてもらった。食堂で鯖フライ定食を食べた。

帰りは鈍行列車で弘前にもどる。

列車からみる日本海は見飽きない。この海を渡れば、大陸に行けるのだ。中国がありロシアがある。北朝鮮の密航船もあるのか、「不法入国取り締まり」の看板もあった。不法入国できるくらい近いのだな。大陸に渡れば、ヨーロッパまでは地続きなのだ。旅がしたくなる。若い時に中国やロシアへ行っておけばよかった。

列車のすれ違いのたびに鈍行列車はとまってまっている。時間がかかる。暇なので、あまり見ないFacebookを開いてみた。

いちばんに飛び込んできたのが、某学芸員さんが「昨日、弘前に行って面白いカフェにいった」という記事だった。わたしは「いまから弘前にいきます」とコメントを送ったら、「18時まで開いているから」とのことだった。

弘前に着いて、ホテルに荷物を置くと、その「万茶ん」という茶店へいった。たしかにひろくて落ち着くいい茶店だ。

コーヒーとアップルパイをいただく。マスターにカフェの少し先に「まわりみち文庫」という本屋があると教えてもらった。

カフェを出るとすぐに、ほっこりした灯りのもれる本屋があった。

店の外に均一200円の箱の中に『噓つきアーニャの真っ赤な真実』が置いてあった。

迷わず手に取った。前から読もう読もうと思いつつ読んでいなかった。米原万里さんが亡くなったニュースも知っていた。

雪深い町で、この赤い表紙が呼んでいた。本とは何年もたってこういう出会いがある。

 

次の次の日、わたしは日帰りで東京へ行った。コロナ感染が広がる中だけど、取材があったのだ。御茶ノ水でおりて、湯島の「小川軒」でランチして、人のお話を聞いて、とんぼ返りで町の家に戻ってきた。

その往復の新幹線で『噓つきアーニャの真っ赤な真実』を読んだ。

わたしがよくわかっていない東欧の政治状況などが少しわかるように書かれていて勉強になる。

なにより、チェコスロバキアプラハにあったソビエト学校に通ったマリと同級生たちが生き生きと描写されている。ユーモアがある。大人になって、友人を訪ね歩くのだが、だれひとり死んでいなくてよかった。彼女たちが米原万里の死をどんなに悲しんだことか。ひとつの時代の終わりのように感じたのかもしれない。

 

 

 

『片手袋研究入門』 石井公二著

 

片手袋。わたしも気になっていた。道路によく落ちている軍手。なぜ、軍手が落ちているんだ。トラックなどの作業のため置きっぱなしになった? ガソリンを入れているときにつかった? いろいろ考えられるけど、そこまでだった。

石井公二さんは、そこを極めていく。出会った片手袋は写真に撮り、分類し、考察していく。

この本を知って興味をそそられたが、買っていなかった。

それが、1月14日(金)のTBSラジオ「アシタノカレッジ」のゲストが石井公二さんだった。石井さんがしゃべるしゃべる。パーソナリティの武田砂鉄さんも嫌味も言わず、素直に盛り上がっていた。なんだか、手を叩いて喜んでしまった。小さな小さなわたしたちが生きていく希望だわ。Twitterでも、石井さんのお話には反響がありました。継続は力ですね。そこから石井さんの哲学がうまれて、お話されることが深いです。話し方も等身大の石井さんが見えてきて、楽しかった。

放送が終わったら、本を買っていました。

 

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映画『ホビット』

つい、『ホビット』3部作をみてしまった。息子たちとみていたはずだが、内容を忘れていた。

今回違うところは、わたしがビルボ・バキンズ演じるマーティン・フリーマンを俳優としてなじんでいる点だ。最初『ホビット』を見たときは、なんだかパッとしないおじさんに見えた。フロド役のイライジャ・ウッドほどのオーラがないような気がした。
しかし、『SHERLOOK』のワトソン役で、『FARGO』のレスター役でおなじみになり、アベンジャーズ映画にもでていた。なんだか何を演じても少し情けない表情がうまいマーティン・フリーマンなのだ。 

 

 

 

キム・ジヘ著『差別はたいてい悪意のない人がする』

 

『差別はたいてい悪意のない人がする』 キム・ジヘ著 (大月書店 2021)

 

 差別にする人たちは悪意がない。だってそれが当然なのだから仕方がない。正義は我にあるのだ。それはわかっている。それが悪意にしかみえないけれど。韓国も日本よりはましかと思ったが、いろいろ古い慣習から脱するのはむずかしいのかもしれない。

 

 前の職場で、職場の人が地域の年寄りに「ここらへんも外国人が多くなったから戸締りしないといけない」と注意喚起していた。心の中で「なにいっているんだ」と思ったけど、言い返さなかった。お年寄りの前でけんかしても仕方がない。ここらへんにいる外国人。たぶん技能実習生の若者たちだろう。ベトナムの女の子や中国の男の子が寒い中、自転車で通勤している。車からその姿を見て、大変だな、きちんとした待遇で雇われているのだろうか、ひどい目に合っていないかと心配していたが、彼らを犯罪者のようにいうその人にびっくりした。その人はいい人なのだ。私にも優しい。地域の人のために力貸す人だ。でも、それは仲間にはということだろう。その仕事も地域も離れるとわたしも異端者のひとりになるのかも。

 また、職場でソーラーパネルを作りに来た中国人の人たちがアパートを借りて住んでいるが、ゴミ出しがきちんとできていない、と怒っている人たちがいた。私はその時、「彼らを雇った会社が、きちんと地域のルールを教えてあげるべきじゃないか。彼らもわからないのかも。彼らのせいではなく日本の会社のやり方が悪い」と反論してみた。もちろん、反応はない。場が白けただけだった。せっかく、中国人は悪いで盛り上がっていたのに、水を差したのだ。

 人の悪口は、人の団結を深める。いじめもそうだ。外国人の悪口を言うのは、日本人の団結を深める。どこの国も何世紀にもわたり同じことを繰り返す。この世界にキリスト教の人口はかなりの数になるのに、「汝の敵を愛せ」というイエスの核となる教えはずっと無視されている。すごく不思議だ。キリスト教に限らず、イスラム教も天照大御神ほか宗教はいつも本質とは別に戦争に利用されてきたけど、信じやすい私たちは、本当の宗教の心を忘れて、プロパガンダに流される。流されるふりをしないと村八分になるからかもしれないが。

 

(P5253)

固定観念は一種の錯覚だが、その影響量は相当強い。いったん心の中に入ってしま洞、ある種のバグのように情報処理を攪乱する。人々は、自分の固定観念に合致する事実にだけ注目し、そのような事実をより記憶し、結果的に、ますます固定観念を強固にしていくサイクルが作られる。一方で、固定観念に合致しない事実にはあまり注意を払わない。固定観念を覆すような事例を見かけたとしても、なかなか考えを変えようとしない。かわりに、その事例を典型的でない特異なケースとして、例外として取りあつかうのである。

 違う信念を持つ人を変えるのはむずかしい。たとえば、夫婦別姓の話。姓を一緒にするか、別姓にするか選べるなら、好きにすればいいのではないだろうか。なにがそんなに怖いのだろう。家族なんてとっくに壊れている。たぶん別姓を選んだ家族の方が、夫婦や家族で話し合ったり会話が多く、うまくいくような感じがする。伝統的家族観を守るというのは、奴隷制を守りたい人たちのような気がする。これはわたしの偏見だが。

 

(P159)

古代ギリシアのポリス時代をはじめ、長きにわたり、不可視性が巨大化した人々の代表は奴隷だった。奴隷が存在する理由は、かれらの労働力を必要とする人がいるからだった。しかし、奴隷には顔も名前もなく、物理的には社会の中にいるが、同等の権利や社会的関係を持った構成員としては認められない、透明人間のような存在だった。ハンナ・アーレントの言葉を借りれば、奴隷はその労働力の必要性によって、「人間存在の中にとにかく組み入れられた」が、人間としての権利を失い「人類(メンシュハイト)から追放されたのだ。

 奴隷という地位は、たんに名称から決まるのではない。奴隷とは、人間の権利を与えられないまま労働力だけを必要とされる状態を意味する。「枠の中」に存在していても、その土地の「主人」と平等でない人、政治的権利を剥奪され権利を要求することもできない人、「主人」が必要とする労働力を提供し終えたら、痕跡も残さず消滅しなければならない人。こうした人々は、現代社会において何と呼ばれているかとは無関係に「奴隷」といえる。このような「現代の奴隷」は、わたしたちのまわりにどんな姿で存在しているのか。奴隷とは、とっくに消えた昔のことだと考えてもよいのだろうか。

 

技能実習生は完全に奴隷でしかない。だんだん日本の酷い実情が知れて、日本で働く外国人が少なくなれば、新しい奴隷は自国で賄わないといけない。そのためには格差を作り、上と下をわけないといけない。

でも、みんなその手にのらないで、自由に生きてほしい。若い人よ。いい大学に入らなくても、自由に自分らしく生きる方法は、まだ日本に残っている。絶望しないでほしい。

ニキータ・ミハルコフ監督『戦火のナージャ』『遥かなる勝利へ』

 

 

戦火のナージャ』(2010年)、『遥かなる勝利へ』(2011年)のロシア映画ニキータ・ミハルコフ監督・主演である。ナージャ役は、監督の娘のナージャ・ミハルコフ。

映画は3部作となっていて、第1部の『太陽に灼かれて』があるのだが、なぜだかAmazonプライムにない。それで、少し人物関係がわからないところがある。第1部では、主人公のコルフ大佐、妻のマルーシャ、ドミトリの三角関係があったのだ。『戦火のナージャ』の冒頭シーンが原因で、コルフ大佐が逮捕されたと思ったが、あれは夢で、第1部に原因があったみたいだ。

コルフ大佐もミーチャと呼ばれるドミトリも残酷なことをしてきた立場だろうけど、なにか憎めない。

とにかく、満州で太平洋で日本人が中国人が死んでいるときに。ドイツがソ連に侵攻し、ヨーロッパも地獄だった。第2次世界大戦というのは何のための戦いだったのか。バカな指導者たちの面子のために多くの命がないがしろにされていったことがわかる映画だ。

好きなシーンは、負傷兵を運ぶ赤十字のトラックをドイツ軍の飛行機が爆撃していく。ナージャが運転するトラックに臨月の妊婦が乗っていて、爆撃の最中に産気づき、荷台に乗っている男たちが産むのを助ける。男の子が生まれ、兵士が「もしかしてドイツ人の子か」と聞く。女性はドイツ人にレイプされて妊娠したのだ。女性は「その子を殺してちょうだい」と叫ぶ。負傷兵がその男の子の名を考える。誰かが姓名も考える。赤ん坊は女性に手渡され、彼女は抱きしめる。ナージャは運転席で、その光景を見つめるだけ(ナージャは声が出なくなっていた)。トラックの周りは爆撃で地面は穴ぼこだらけ。まわりのトラックの人々は全員死んでいた。生き残ったトラックの男たちは、「この坊やのおかげだ」と喜ぶ。女性は赤ん坊に乳をやる。これからが苦労なのだろうけど、とりあえず良かった。

この映画でも、軍部のバカバカしさと対比して庶民のおおらかさ、ユーモアが描かれていて、どこも同じという感想をもつしかない。