胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

ぼくらの民主主義なんだぜ

 朝日新聞の毎月最終週の木曜日の高橋源一郎さんの論壇を楽しみにしていました。
 その後、一時わが家はテレビをやめ、新聞をやめました。一番の理由は、お金を節約するためです。その時も、この論壇を読むために、最終週の木曜日にはコンビニで新聞を買いました。
 しばらくして、高校生の息子がテレビも新聞もないと、今何が起こっているかわからないと言います。試験には時事問題も出るのだと。父母はラジオやネットで事足りているように思いましたが、また新聞をとることにしました。どこの新聞にしようかと考えたとき、やはりこの論壇が読みたいので、朝日新聞にしました。
 以前から、この論壇のページを切り取り、食卓に置き息子たちに読めと強制していました。一応息子たちも目を通しています。

 本を買い、もう一度読み返して思うのは、見ることをやめてはだめだということです。嫌な世の中になった、戦争が起こるかもしれない、年金もなくなるかもしれない、ラジオを聞いていると、不安になり心辛くなるので、ニュースを切ることがあります。そうして美味しいものや自然の中で心平和に暮らしているふりをしたりして。
 でも、たしかに現代は時代の転換期の渦の中にいるのだと思います。私たちはその当事者なのです。見ないのはもったいない。この目でよく見ておきましょう。時代がどう進むか。

 「そこにはつねに、それいじょうのことがある」の章で、尊敬するスーザン・ソンタグの言葉がかかれています。

 同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった。
「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である…何事であれ、それはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」
 そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。それ以上のことが、そこにある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。

 テレビやラジオ、新聞、ネットから情報が流れ、私の中の価値判断で善悪は決まっていきます。しかしニュースなんて右も左も一面的でしかない。
 また、ある出来事が起こると、強い意見と言うほどではないけれど、たいていの人は反対か賛成に○をつけるでしょう。先日にあった大阪都構想住民投票のように。大阪を良くするためには、もっと考えなくてはいけない。賛成か反対かを投票するだけでなく、それ以上のことを考えていかないと、単純な結果だけで終わってしまう。それでは、むなしい。

 本の帯には、「絶望しないための48か条」と書かれていましたが、絶望し不安になるのは損かもしれない。大事な場面に自分は立ちあっているのだと肝に力を入れたいものです。