胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

『パンと野いちご  戦火のセルビア、食物の記憶』

 『ベオグラード日誌』につづきこの本を読む。

ノーベル文学賞作家のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの手法を思い出させた。

しかし、第2次大戦のあとにも戦争、虐殺、難民・・・終わらない。昔のことではない、つい最近、そして今のこと。

 難民となった人も、この戦争の意味が分からない。「民族浄化」なんて思いあがった言葉なんだろう。

 

本書さいごあたり(P269)のべトラさんの言葉。

「人が難民生活を始めますとね、わかることがあります。世の中のひとはみんな、すべての難民の人を同じような目で見る。今、シリアからの難民の人々が問題になっていますね。シリアの人々は、識字率も高く、概して教育レベルも高い人たちで、文明生活をすている人々です。またキリスト教イスラム教が混在する地域です。ところが難民という言葉を聞くと、みんな別のイメージがある。政治は、人々を洗脳しますし。いずれにしろ受け入れ側の難民に対する態度には、多くの問題がある。難民は、掃除機の使い方なんか知らないと思い込んだりね。それから難民の人が新しい自動車に乗ったり、毛皮のコートを着たりすると、「なぜ、あなたたち、そんな良いものを持っているの」と聞かれることになる。難民についてステレオタイプのイメージができる。

 それから、「この国に慣れましたか」と、よく聞かれましたが、私は同じ国にいるのですよ。同じユーゴスラビア、同じ国の土地だったではありませんか。政治は人々から教養を奪い取ります。人を愚かにします。民族のアイデンティティーは、この土地では宗教によってわかれていました。これは人間の内なる世界から発せられるものではないのです。政治的意図から発せられるものなのです。

  日本人が難民の方々に思い描くイメージも同じ。今は世界中ある程度の生活をしている。医者だったり教育者だったり仕事があっても、殺されるから国を出る。安定した生活がないから、安全でないから国を出る。築いたものをすべて捨てても家族の命を守る。日本は劣等処遇がいまだにあるので、難民がいいもの持ったり、大学院出ていたりするのが理解できないのかもしれない。それくらいの力があるなら、自己責任で何とかしろということになる。しかし、財産捨てて知らない国で生活するには助けが必要だろう。これは現代いまだにあること。民族紛争の裏には大国の影がちらついて、いやらしい。

 

パンと野いちご: 戦下のセルビア、食物の記憶

パンと野いちご: 戦下のセルビア、食物の記憶