胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

気仙沼へ

先週のことだけど、電車で気仙沼にいった。「いわてホリデーパス」を使えば往復2500円。朝4時20分に家を出て盛岡駅まで歩く。夫はまだ寝ている。あれ、30分少しで着くと思ったのに、もう5時近く。発車は5時11分。最後は駆け足で駅へ。帰って来てから夫に「出る時間を誤った」と話したら、「歩くのが遅くなったんだよ」と言われた。そうなんだ、今までは歩くのが早いと言われていたのに、最近は人に追い越されたりする。足におとろえが出てくる。

 

それはともかく電車に乗れた。乗客はそこそこいる。外は霧が深い。普通の通勤電車なので、横一列のシート。だんだん晴れてきて外が見えるようになる。稲刈りがはじまっている。「あ、ぼっちだ」と思う。

奥州にはいると、稲のはせ掛けが縦に重ねて積んである。行き来している盛岡と遠野で見るはせ掛けは、平行棒に並べていくやり方だ。

育った千葉で落花生を収穫して乾燥させるのも、積み上げて塔のようにする。それを「ぼっち」という。いわれはわからないけど、落花生畑に一つひとつ離れて立つ姿はひとりぼっちの様子がある。

小さい頃は団地のまわりに落花生畑が広がっていた。いまではその畑も家が建つ。山も削って家が建つ。空き地には家が建つ。景色は変わってしまった。

 

奥州のぼっちはなんと呼ぶのだろうか。帰ってからTwitterを見ていたら「ほんにょ(穂仁王)」と書いてあるものがあった。稲穂の仁王様か。こちらの名づけは勇ましい。

 

一関駅で大船渡線へ乗り換え。待ち合わせ時間がある。

大船渡線はシートが向き合わせで、外がよく見える。砂鉄川が豊かな川幅を見せる。猊鼻渓あたりを過ぎ、彼岸花が咲くあぜ道をみたりして飽きなかった。沿岸に近づくと、稲のはせ掛けは平行棒になっていた。気仙沼には8時45分に着く。

岩手ホリデーパス

 気仙沼駅の観光案内所でいろいろ教えてもらう。観光案内所でリアスアーク美術館のチケットを買うと、500円ずつのタクシー割引券がついている。歩いて湾へ行けば、カフェなどもあるという。歩いて海まで行くと、おしゃれなカフェなどが並ぶ。若い人たちが準備をしている。なにかイベントがあるようだ。海沿いを歩こうと思ったけど、陽ざしが暑くなってきた。家を出るときは寒くてショールを持ってきたけど、帽子を忘れた。タクシーを頼んで美術館へ行く。タクシーの運転手さんが「ここまで津波が来た」「ここは田んぼだった」と教えてくれる。

 11時半に気仙沼在住の俳人Kさんと待ち合わせてランチなので、急いで展示を見て歩く。震災の記録の展示を一つひとつ見て回るのは時間がかかる。わたしは津波直後の沿岸を見ていない。見ておけばよかったのか。でも、のこのこ行くものではないと思っていた。釜石の夫の実家が流されて、夫が父親を探し出して盛岡の家に連れてきた。義父は認知症津波の時はデイサービスにいて助かった。義母は避難所にいたが、もう義父と暮らしたくなかった。三沢から関西の親類の家に行ってしまった。もともと九州の人で関西に親類が多い。いま思えば、わたしは勤めはじめた病院もドタバタして、沿岸に行くどころではなかった。ボランティアもしていない。

でも、なにかすればよかったのだろうか。たいてい1日2日とボランティアした人は多いくて、その話を聞くけど、自分は何もしていないという劣等感みたいのがほんの少し芽生える。

 Kさんと美術館のレストランでランチをする。Kさんは、いまだに美術館の震災の記録は見ることはできないそうだ。知り合い、親戚が何人も亡くなっている。ほとんどの人が誰かを亡くし、一人ひとりにドラマがあると話してくれる。

 

 Kさんが復興祈念公園に案内してくれた。お天気が良くてすばらしい景色。亡くなった方の名が町内ごとに刻まれた碑がある。Kさんが「この人は、友人の夫」とさする。知っている人の名がいっぱいあるんだ。

 船の帆の形をした「祈りの帆ーセイルー」の中には祈りの場があり、湾が見える。Kさんがしばらく祈っていた。

 

 

「時間があったら、大島に案内したのに」とKさん。わたしは14時からのリアスアーク美術館でのパフォーマンスを見に来たので、美術館にもどる。「新・方舟祭」というイベントが開催中で、そのなかで、「気仙沼自由芸術派 朗読パフォーマンス」というのを見に来たのだ。

前から知っていた及川さんもゲストに出るという。お手紙でやり取りはしていたけど、はじめて会う。なんとも自由で柔らかい人。朗読もよかった。詩誌「霧笛」の千田ファミリーは声が良くてうっとりする。及川さんが畑のトマトや貰い物の梨やブドウを渡してくれる。ゆっくり話したいけど、16時15分の電車で帰りたいのでお別れする。

 帰りは一関駅での待ち合わせの時間が長かった。盛岡行きの新幹線に乗る人もいた。新幹線に乗りたくなったが、ホリデーパスは新幹線の乗車券にならないのであきらめる。一関駅から盛岡駅までは混んでいる。一列のシートに座りながら、「まだ北上か」などとホームを見て駅名を確認する。各駅は長いなあ。でも昔は総武線で通勤したこともあるではないかと思う。お金がなくて一時期実家にもどって、飯田橋まで通ったことがあった。遅い時間に総武線の各駅電車で千葉駅、乗り換えて外房線。朝は始発なのでわたしは座れたが、超満員の電車で出勤。よくあんな生活ができたものだと思い出す。ヒールのある靴も履いていた。若いからできたのね。

高校のときも電車通学。予備校は水道橋。大学は御茶ノ水。住んでいたのは学芸大学。結婚したのは小平市。その後は八王子に引っ越し。総武線に山手線、東横線に中央線。毎日の生活に電車があった。岩手に住んでからは、車生活。車ばっかりになると、待つ力がなくなってしまうのかも。歩くことも少なくなる。

 そんなことを考えながら盛岡に着いた。20時7分。駅から家まではタクシーに乗ってしまった。

 朝ドラの「おかえりモネ」を見ていなかったので、寝る前にNHKオンデマンドで「おかえりモネ」を見はじめる。ぜんぶ見るには時間がかかりそう。

ヤマナシの実

ヤマナシの実が今年はいっぱいなった。

借りている小屋の庭にヤマナシの木がある。

小屋の改修に手を付けたとき、このヤマナシの木は太い蔦にからまれ、まわりも細い柳の木があり、瀕死の状態だった。蔦を切るが、枝にからまってしまいはがせない。上のほうは無理だと思っていたら、根元が切れて腐れたのだろう何年かたって、蔦はきれいに落ちてなくなった。

そしてこの春のヤマナシの花はきれいにたくさん咲いた。

花が咲くと、スズメバチがこの木にくる。巣をつくるのかと見張っていたが、樹液があるのか、木の皮を巣づくりに運んでいるのかよくわからないけれど、しばらくヤマナシの木にいて飛び去る。

そのスズメバチたちがどこへ飛び去るのかを眺めている。どこかに巣をつくっているはずだ。

そんなスズメバチが来なくなった。ほかに良い木をみつけたのか、人間の家にでも巣をつくって退治されてしまったのか。

 

秋になり実をつけ、それは小さいのだけど梨の色形で、味も梨の味なのだ。

宮澤賢治の「やまなし」では、ヤマナシは川に沈んでひとりでにお酒になるとあったが、地上でほっておいたら腐れるだけだから、わたしはヤマナシホワイトリカーにつけた。どんな味のお酒になるだろう。

 

文庫の庭にあるヤマナシの実

今日、9/20の朝は風雨が激しくなっている。台風が通り過ぎているのだろう。昨日も蒸し暑かった。そとには出かけず読書。京都にでかけていた次男は「予定を変えてはやめに東京にもどった」とLINEが来た。

昨日は、地元の新聞の俳句評が書いてあるコーナーでわたしの俳句が取り上げられていた。新聞は取っていないけど、知り合いの俳人が朝一番にLINEで画像を送ってくれた。

読んでみると、私の前には先輩俳人のKさんの俳句も取り上げられている。

Kさんと俳句がならんでいることが嬉しかった。

ちょうど、日曜日にKさんと岩手公園を歩き、むかしは岩手公園に動物園があったこと、梅園であったことなど話してくれたのだ。80代後半で独り暮らしのKさんだが、句会に吟行にと出かけて、児童文学の研究もされている。もと幼稚園の先生で、この間まで教会の礼拝でオルガンも弾いていた。スタスタと歩ける。好奇心旺盛で、少女のようなところがある。こんなふうに年をとりたいと思う。

 

吉田美和子『単独者のあくび 尾形亀之助』

 

『単独者のあくび 尾形亀之助』 吉田美和子著 (木犀社・2010年)

 

この本は知り合いのTwitterなどに書かれていて目にはしていたのに読んでいなかった。

ページ数多くてお値段も高い。ようやくどっこいしょと読みはじめたらやめられなくなった。

最初の場面は、戦後、銀座のバーで草野心平辻まことが出会うところからはじまる。

草野心平尾形亀之助の『障子のある家』をそのままの姿で復刻したいと思っているが、その詩集は限定版で友人たちに配られたものである。焼け野原となり死んだ人も多い中で、さがすのが困難だったのだろう。それを辻まことに話す。

 

—それならばボクがもっています

 —なに? 本当か、どこにある

 —いまもっていますよ

 —いまってここにか

 私は「そうです」とポケットからだしてカウンダ―の上に置いた。心平さんは実に妙な顔付きでこれを眺めた。信じられないといった面持ちの一瞬だった。

 

 これは辻まこと尾形亀之助について書いた文章の一部である。辻まことは中国戦線で兵隊をしている間も尾形亀之助の詩集を持ち歩き、日本に帰って来ても詩集をポケットにいれていた。辻まことの伝記にはかならず入っている場面だ。ひさしぶりにこの場面に遭遇して泣いてしまう。わたしの青春が辻まことにあったからだ。

 

 それはともかく、それですっかりひきこまれてあの時代の尾形亀之助とそれをとりまく人々の物語にすっかりはまりこんで読み進めていくことになる。

 

 尾形亀之助は、1900年宮城県大河原町に生まれる。どんでもない資産家の家であった。さいごに家は没落し、亀之助もすこし働きには出るけれど、ほとんど勤め人にも収入のある芸術家にもならなかった。でも、絵を描いたり詩誌をつくったりし、さいごは詩集を出し詩人となるのだが、仲間内で知られる詩人で一般の人がその名を知ることはない。

 1942年、仙台の街の中でたおれて亡くなる。ゆっくりとした餓死自殺だったともいわれる。これから日本の戦況は厳しくなって、挙国一致スローガンのもと、兵隊にもなれない勤労奉仕もできない役立たずの病人の詩人などはますます生きづらくなり、覚めた目で世間を見るのもつらいだろう。戦後のやる気に満ちた文学界にはますます孤独を感じるだろう。よく早死にした文学者を「もっと長生きすれば」と悼む言葉があるけれど、尾形亀之助は長生きしなくてよかったかもしれないと、本を読みながら思ったりする。

 

尾形亀之助宮沢賢治の関係もこの本に書かれている。関係はそれほどないが、尾形亀之助がだした詩誌『月曜』に宮沢賢治の「オツベルと象」や「猫の事務所」を掲載している。尾形亀之助高村光太郎草野心平から親切にされていた。そのつながりで、宮沢賢治のことは知っていたが、会ったことはなかった。

宮澤賢治というと、「雨ニモマケズ」にでてくる。デクノボーというものに、賢治はなりきれなかった。賢治は根が真面目だし、信仰や家族との絆も強いとみれる。

でも、この本を読むと尾形亀之助こそが、徹底したデクノボーでありえたと思う。

 

先月、太田土男先生がとってくれたわたしの俳句「でくの坊なるはむずかし青胡桃」があった。なるべく人の役に立つなどとおもわず、デクノボー的に生きたいと思っても、人間はついつい人の役に立ちたくなるものだ。いい人と思われたくもなる。

この本で、尾形亀之助のデクノボーぶりを見てなんともいえないくらい面白い。尾形亀之助がお金の苦労をしてこなかったためか、お金に執着もない。根が育ちがいいという感じを受ける。デクノボーの王子様、尾形亀之助はなにを考えていたのだろうか、そんなことを思いながら本を閉じた。

 

 

秋田へ

秋田へ行ってきた。新幹線こまちで1時間半もかからない。

夫が仕事があって秋田へ行くというので、「ずるいわたしも行く」となった。最近は町の家と山の家の往復ばかりで、少し飽きていた。

東北割というのがあって安く泊まれるというので、1泊することに。

夫との旅と行っても、行きも帰りも新幹線は別々。ホテルの部屋もシングルを2つ取る。家にいても別々の部屋だし、寝る時間がちがうので別のほうが気が楽なのだ。

1日め、わたしは早く秋田につき、無印良品で秋物のシャツを1枚買った。あとから来た夫と待ち合わせして秋田市民市場へ行き、お寿司のお昼を食べる。少し値段の高い回転寿司。しかし、わたしは残りご飯で作ったおむすびをひとつ食べてしまっていたので、お寿司はヒラメを一皿とざっぱ汁(あら汁)を食べただけ。ざっぱ汁が美味しかった。

夫が仕事で人と会っている間、市民市場の隣にある「赤居文庫」で本を読んでいた。本が沢山はないけど、読みたくなる本が置いてある。飲み物の種類も多くて楽しそう。わたしは豆乳烏龍茶をたのんだら、大きなマグカップで出てきて飲みごたえがある。

読んだ本は『オオカミと森の教科書』。日本の森に狼を放すことはできないだろう。でも、鹿害のために泣く日々を思うと、狼に頼りたくもなる。鹿だけでなく熊も猪も増えているのに、絶滅した種はもどることはないのだなと思いながら。このままどうなるのだろう。戦争にでもなって日本が飢えるようになったら、我先にと鹿を狩るようになって、野生動物が減るのだろうか。それはとっても嫌だな。絶滅しないように、でも被害も少なくどうしたら一緒に生きていけるのか。いろいろ考えさせてくれる本で、読みやすい!

 

ホテルにチェックインして、夫と千秋公園をひとまわり。広いお堀の蓮の花も終わりかけているが、見ごろの時期は壮観だったろう。

 

ずいぶん久しぶりの秋田。

いつ来たか調べてみた。たまたま用があって秋田市に1泊したときに千秋美術館でアンドリュー・ワイエス展をやっていて見た記憶しかない。どこに泊ったかも覚えていない。ネットで調べたら、アンドリュー・ワイエス展は平成13年の4月から5月。ずいぶん昔のことだ。現在、千秋美術館は改修中でお休みだった。平成13年も千秋公園を歩いたが、だいぶまわりが変わっている。大きな芸術劇場や文化施設ができたり、カフェができたり。

千秋公園入口に「秋田市文化創造館」という施設がある。名称が固くてなんだろうと思った。若い人が外で喋り、中でテーブルに向かっている。入ってみると、広いフロアーに机とテーブルが置いてあり、自由に使っているようだ。本棚もあり、夕食の時間に早いのでそこで本を読んで過ごした。夫と「こういうフリースペースいいよね」と話す。盛岡にないナ。

「文化創造館」の庭に歌手の東海林太郎さんの像がある。わたしは「この人知らないけど、赤城の子守歌はわかる」というと、夫が驚く。「すごい有名だったよ。直立不動で歌って紅白にも出ていた」という。心の中で、だって12歳離れているから知らないよと思いながら、いや見ていると思い出した。名前は憶えていないけど、直立不動で歌っていた男性歌手がいたと。小さい頃にテレビで見ていた。

 

夕食は、川反どおりの「北洲」というお店。夫の友人が教えてくれたところ。川の見える座敷に座らせてもらって、ハタハタの塩焼きやお刺身で日本酒をいただいた。

 

2日めは、夫は男鹿半島へ行き、わたしは秋田県立美術館へ行く。

美術館は9時からと思ったら、10時から。どうしようと思ったら、となりにフリースペースのある建物があり、中で座って本を読める。テーブルもあるのでパソコンをひらいている人も。最近、胃腸が悪くてコーヒーを控えていたので、カフェに入っての時間つぶしもつらい。コーヒーも紅茶も飲まないで、飲みたいものが麦茶なら水筒を持って歩けばいい。でも、ベンチが少ないとひと休みができない。雨や暑すぎると屋内にひと休みするところがあるといい。その点、秋田市は駅のコンコースにもテーブルつきのベンチや面白いベンチがあり、待合室も工夫された椅子とテーブルがありゆっくりできる。町中なかにもベンチがある。なかなかいいと感心した。

秋田県立美術館は、藤田嗣治の壁画絵「秋田の行事」が見たかった。藤田嗣治は1933年(昭和8年)に日本に帰る前に南米を歩き、南米の壁画や色に影響を受けたと解説があった。パリで描いて人気のあった「乳白色の肌」の絵とは趣がちがいうが、庶民のいきいきした様子が描かれている。わたしは母親に鼻紙で鼻をふかれている男の子が好きだ。こういう小さなものを大切に画面のあちこちに入れている。

藤田嗣治のことは下記の本を読んで知った。

近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 - 胡桃の木の下で


美術館の特別展は「藤田嗣治 子どもへのまなざし展」である。戦後の戦争画の責任を言われ、美術界に日本に嫌気がさしてパリにもどってからの作品群。小さな絵を楽しみながら描いたのだろう。あの戦争画アッツ島玉砕」を描いたのが藤田嗣治の抵抗だったと思う。他の並みの戦争画とは違うと。画壇で偉くなるというより、自分の絵を描きたかっただけなのに。子どもの絵を見ながら、いろいろな細部を描きこんでいるときの平安を思う。

 

ホテルから2000円クーポンをもらったので、お土産にいぶりがっことハタハタの干したのともろこしを買う。

 

泊まったホテルはコンフォートホテル秋田。ロビーに本棚があって、読みたい本が並んでいる。もっていない谷口ジローの本を読めた。

 

去年は夫の取材について津軽をまわったのに、ぜんぜん記録していなかった。認知症になりかけているわたしは、泊まった場所や行った場所の名前を忘れてしまうのだ。なるべく記録しておこうと反省する。

ポリティカルコレクトネス?

わたしと息子たちは『ロード・オブ・ザ・リング』のファンである。映画は何度もみて、本も読んでいる。わたしは実家で、子どもをほったらかして夢中で本を読んでしまい、親と仲たがいしたきっかけとなった。「そんなんで子育てがきちんとできるの!」。子どもは子どもで映画と本好きになって勝手に育っている。

Amazonプライムで「リング・オブ・パワー/力の指輪」がはじまった。さっそく、次郎が見たらしい。LINEで「ポリコレで炎上しているね」と言ってきた。なんだかエルフに黒人の俳優が演じていて違和感があったようだが、詳しいことは検索するのも面倒でわからない。わたしもドラマを見てみたけど、黒人でも違和感は感じられなかったけど。でも、黒人のエルフは下級兵士のようで、上級エルフは白人だし、たいしたポリコレでもないということが批判されたのかしら。

おとぎ話なのだから。黒かったり白かったり黄色でもなんでもいいと思う。人間はアフリカから生まれたのだから。

 

最近で感心したのは、「トップガン マーヴェリック」を見たときだ。黒人が目立たなかったが、女性の隊員がいた。むかしなら、女性隊員は男性に揶揄されたり、邪険にされたり、恋愛の対象となったと思う。けど、何もないのだ。女性がリードをとっても平気。男女差なんて無色透明で、ただの同僚であり仲間でしかない。これはいいな、と思う。主役のトム・クルーズだけはあいかわらず恋愛していたけど、兵隊たちの描き方は良かったと思う。実際の軍隊に男女差別はまだまだあるのかもしれないけど、映画のようにふるまえることもできるということはあるだろう。

 

Amazonプライムで「ニューアムステルダム」という医療ドラマをみた。

黒人の心臓外科医のレイノルズに白人女性のER医師のブルームが誘うけど、「無理だ」と断られる。「なんでよ!」とブルーム。ふたりは盛り上がって寝てしまったことがあるみたいだ。だから、ブルームは恋人関係だと思い込むが、レイノルズは「ついつい盛り上がってしまった」という。そして自分には夢があると話す。「アフリカ系の女性と結婚し、かわいい黒人の子どもをもつこと」。だから白人と付き合うわけにはいかない。

ブルームは振られてもあきらめきれないが、友だちの優秀な黒人女性を紹介してしまう。

わたしが古いのかもしれないが、「すごいね、白人のほうが人種差別されているんだ」と感心する。

ドラマの中心にいるスタッフもさまざまだ。精神科医のフロムは同性婚していて、養子を何人も育てていて、まいにち子育てに忙しい。神経科医師のカプールはインド系。お祈りをする習慣があるし、カフェのエラにインドのお菓子をプレゼンする。カプールの助手はアジア人女性。スカーフを巻いた中東系の看護師もいる。主役のマックスを支える腫瘍科の医師シャープはかっこいい黒人女性。

ポリコレでこれだけ人種を集めているわけではなく、アメリカは人種のるつぼなんだろう。他のドラマでも同じような感じだ。

日本にいると感じられないけど、人種も性別もあまり気にならない世の中になってきていると思いたい。

 

まったくドラマばかり見ていないで、仕事しなさいと自分に言いたい。

 

 

 

 

 

日記を書く

このブログは備忘録になっているけど、日々本を読んで、映画を見たことをぜんぶは書き入れられない。

ブログがおろそかになっているのは、SNSのせいかもしれない。夫と週末だけ文庫をはじめたので、文庫の宣伝のためにSNSをしている。FacebookInstagramは同じ記事を載せ、Twitterは日々の写真をつぶやいている。Twitterは手軽で好きだ。Instagramに週1回はきちんと記事を書くというのは、なかなか面倒だ。みんなよく更新している。でも、じぶんも人のブログやSNSを見て更新されていないと少し残念に思うので、週に1回は更新していこうとは思っている。

Twitterは自分用のアカウントがあり。それは本や映画や政治や関心あるものの情報収集といったところ。これもぜんぶ見ていたらきりがないが、たまにいいものに出会える。本の紹介はあぶない。そのままAmazonに移動して買ってしまうこともある。反省して、まずは図書館の検索機能で探すことと、安い古本を探したり、すぐに買わないようにしている。

 

日記はワードにつけていたけど、ダラダラ書いていてもあとで検索するのが面倒なところがある。

「note」に1カ月だけ日記をつけたことがある。でも、あれはSNSのようにイイネがついたりフォローされるという機能があり、面倒くさくなる。文庫でやっているSNSは商売でもあるので愛想良くしてフォローバックもするけれど、個人的な日記なので「ほっといてくれ」という気持ちになる。それにあのバッチという意味がわからなかった。いちいちバッチを獲得しましたとかうるさい。1か月日記をつけてみたが退会した。1か月の日記も消えたが、たいしたことは書いていないのでおしくもなかった。

「note」は再度入会したが、読みたい人の記事をフォローするためで、自分では記事は書いてない。ひとにはそれぞれ合うあわないのがあるのだ。

 

日々のことでなにか書きたくなったら、ここがあるのではないかと今朝思いついた。

ながくながくお世話になっているHatenaさんを思い出したわけである。

 

昔むかし、社会人学生で大学へ行った頃に書いていた。

それから福祉業界で働きいろいろあって、いろいろあってもどうにか乗り越えて生活している。

いまは、週に2日相談支援のバイトをしている。結局、精神保健保健福士という肩書がありがたいのかもしれない。9月から週3日をお願いされて、お金もキツイので引き受けた。ほんとうはなるべく働きたくないけど、生活のためには最低限働かなくうてはいけない。

週末は山のお家に帰って近くで文庫と古本屋をしている。でも、これは10月までだ。ほんの趣味のお遊びである。人も来ないけど、草取り草刈りで夏を過ごすだけよりはいいかもしれない。なぜ、文庫をはじめたかという話はいつか書きたい。

 

そのほか何をしていると、あいかわら俳句である。それに詩もかいて、最近は短歌もいいなあと思っている。いわゆる詩歌全般を読んだり書いたりしている。

金子兜太が死んで「海程」がなくなったときに、次の「海原」には移らなかった。東京まで行くのは貧乏になっていく自分には無理だと考えた。それで、詩を書いて地元の新聞に投稿して、けっこう掲載されたりしていた。

地元の「草笛」という俳句会から誘われて入会した。なんとなく俳句も書いていても、ひとりで書いているのもつまらなくなったから。入った次の年に評論賞募集があったので、飯島晴子の評論を書いて賞をもらった。今年は新人賞をもらって同人になった。嬉しいというより「まずい、やーめたと言えなくなる」と思った。

「海程」で新人賞は2位でもらえなかった。そのまま同人になってしまい、賞をもらわなかったことをがっかりもしなかった。あのとき賞をもらっていれば、わたしの俳句人生も変わっていたのかもしれない。

そんなこんなで毎日がすぎていく。

この冬に、ある先生の単行本の手伝いをして、その本が売れたので、わたしもなんとか生活していける。来年のために企画を考えなくてはいけないのだが、詩歌のことばかり考えて、精神保健的な企画に頭がまわらない。わたしが詩歌の本はつくれないので、精神保健関係の企画をのぞまれている。

そうそう、わたしはけっきょくのところ、ライターにもどったのだ。もどって1冊仕上げて、何のダメだしもなく本になっていくので、まだまだ力はあるはずだとは思うのだけど、心のどこかで還暦も過ぎてわたしに何ができるだろうと考えるのである。

 

すぐに鬱状態になりやすくてひきこもりになる。相談支援の仕事はエネルギーがいる。できたらライターで稼いでいきたいが、何を書くべきか迷っている。

お金にはならないけれど、2つのテーマは書くと決めているので取材はすすめていかなくてはいけない。あとは稼ぐための企画である。週3日は笑顔で相談支援。まだまだ頑張れわたしというところである。

蓮の花もきのう見にいったら、枯れる体制にはいっていた。

 

映画『娘は戦場で生まれた』

 

映画「娘は戦場で生まれた」を見る。

映画の冒頭「そんなことを世界が許すとは思わなかった」と監督がいう。

わたしもそう考えていた。いまどき戦争や虐殺が許されるはずがない。しかし、戦争も虐殺もなくなることはなかった。いつもどこかで起こっている。よくニュースになる国やならない国の違いはあるけど、たくさん世界に向けて報道されても変わらない。破壊尽くされて終わる。生き残るのは運でしかないのだろうか。

わたしたちは報道を見て怒る。許されないことだという。しかし、なんの影響もない。世界中がデモをして祈れば違うのだろうか。ベトナム戦争を反対するときは、勢いがあったように感じる。

映画の監督は、自分の撮ったアレッポの現状をSNSであげて、何万のイイネがつきリツイートされても現実には影響しないことになにを感じるだろう。人々はニュースを消費するだけで立ち上がらない。

でも、現状を見てもらうしかない。知らせるしかない。次はわたしたちの番かもしれない。ただ、世界は助けてくれない。自分で戦うしかないのだ。

www.transformer.co.jp