胡桃の木の下で 

日記ではなく備忘録になっています。忘れっぽくなってきたので。

精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察

呉秀三が『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』(1918年)のなかで述べた『我邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし』という言葉があるけれど、いまだにこの国に生まれた不幸を背負っていると思う。

それも統合失調だけではなく、あらゆる精神的不調をきたした人たちが、この国に生まれた不幸を抱えている。
そうして、この国の国民は冷たい。本当はいい人なのだが、自分の生活を守るのに精いっぱい。
貧乏くじだけはひきたくないから、上下左右を見て生きていく。

今朝、新聞に被災者のこころのケアが大事だと書かれていた。その支援をゆるめてはならないと。
それはそうなんだけれど、気分は落ち込むのは仮設の住まいのこと、借り上げ住宅にいる孤独、そうしてお金がない。気晴らしに物見遊山するお金もない。じっと毎日の生活に耐える。

こころのケアより、被災者の生活再建が先なのではと思う。
ニュースで、被災地の小学校の建設が遅れたのは、資材や人件費の高騰で、当初の予算が上回ったためだと言っていた。
それはおかしいのではないか。
そういう理由で予算がとれないなら、補助金を出すべきではないのかな。
被災した地域のせいではないのに、値段が高騰してと被災地で儲けている人がいるような気がしてならない。
こころのケアに多額のお金を使うのなら、地元に有効なお金の使い方があるのではないだろうか。
まずは、5年近くたっても居住環境が悪ければ、気もふさぐ。旅行の一つもできなければ、気分転換もできない。私なら、専門家がきてこころのケアで話を聞くより、紅葉の温泉にでも行った方が楽しいと思う。
建築業界と同じで福祉業界も医療業界も被災地で儲けているような気もしてくる。
自殺が目に見えて減らないことをどう反省するのだろうか。

こころのケアや精神薬より、お金です。日々の生活に困らないこと。将来の不安がないことだと思う。そういう仕組みを作っていって、被災しようが、病気になろうが、失職しようが、最低限度の生活と楽しみは持てるとわかっていれば、死なないかも。鬱にもならないかも。
だから、専門家達がやることは、個人への働きかけばかりでなく、政治への働きかけなのかもしれない。